部立

古家愛斗さんの「『千載集』編纂にみる藤原俊成の神祇歌観」(日文協「日本文学」6月号)を読みました。藤原俊成が『千載和歌集』撰集に当たって、神祇部への入集基準をどのように定めていたかを考察し、俊成の神祇歌観を明らかにしようとするもの。

まず藤原清輔撰の『続詞花集』神祇部との共通歌、中でも両集で異なる部立に収められた歌を分析し、藤原定家撰『二十四代集』とも比較しています。同じ歌が『続詞花集』では神祇部に置かれているのに、『千載集』では雑の部や四季(秋)の部に入集している例を中心に考察しています。結論は、『千載集』神祇部の歌は、顕現する神威に注目し、神と作者が直接繋がる、第三者を介在させない歌であったということで、今後俊成自身の神祇詠を検討し、当時の神祇思想との関連も考えて行きたいとしています。

古家さんは10月の中世文学会では、「「『千載集』神祇部・「神遊びの歌」考」という発表を予定しているので、より広い世界へどれだけ踏み出しているか、期待したいと思います。

歌集の部立には、その撰者の思想が現れるものには違いありませんが、どこまでその意識が行き渡っているかを見極めるのはなかなか難しいことです。同じ歌が恋・四季・雑のどこに分類されているかが、家集と勅撰集で異なることはよくあり、そこには撰者の歌に対する読みと共に、編纂の事情が潜んでいることもあり得るでしょう。それもまた、歌集を読む時の楽しみだと言ってしまえばその通りですが。