調査2日目

昨日に引き続き、終日源平盛衰記の調査をしました。今日は4人で、手分けして乱版と写本を見ました。数百年も前の紙と墨跡を見ながら、書写者の思いを感じ、彼がふと机を離れた瞬間をも推察できるのが書誌調査の理想、と何かで読んだことがあります。勿論、そんな水準に達することはできていませんが、実物を触り、凝視し続けると、そこに書かれている文字の意味だけでなく、資料をとりまくさまざまな情報が話しかけてくるような気がしてきます。

写本の奥書や識語を、活字で印刷された通知文のように受け取ってしまうのは危険です。それが、何のために、いつ、そこに書かれたのか、テクスト本体とどう関係しているのか。ひろく、冷静に情況を読まなければ、見当違いのストーリーをでっち上げるはめになりかねません。今日入手したデータを、ゆっくり吟味しながら考えたいと思います。

駅まで歩き、交番脇にある「お茶の水」を教えたら、3人とも初めて見るのだそうで、さっそく写真を撮っていました。聖橋近くのレトロな喫茶店に入り、ウィンナコーヒーを前に、今後の計画や分担を相談していると、突然、ニコライ堂の鐘が鳴り出しました。土曜日は、徹夜の祈祷があるらしい。街を包むように鳴り続けます。昨日、私は30年間愛用した腕時計を失くしたのですが、拾って届けてくれていた人がいて、古時計も甃に落としたのに壊れず動き続けていて、この街に感謝したくなる1日でした。

今日の調査の成果も含め高木浩明さんが、「『源平盛衰記』乱版の正体見たり」と題して、関西軍記物語研究会で発表します(4月28日(日)13:30から、京都府立大学稲盛記念館105教室)。

文献調査1日目

源平盛衰記の共同研究に便乗して、特殊文庫で終日、写本を調査しました。この写本を室町末期と判定している研究者がいるのですが、うーむ、と思われる要素がつぎつぎ出て来て、明日もう1日見ながら今後の方針を考えよう、と決めました。連れの2人も、調査した版本から意外な事実がみつかったらしく、さあどうしようか、という相談をしていました。

図書館や大学へは、新元号に関連してとんちんかんな、ときにはは居丈高な問い合わせが殺到し、当惑している、という話題があちこちから聞こえてきました。いきなり電話する前に、基礎的な調べものを身近なところでやってみるよう、お奨めします。

水道橋やお茶の水駅の周辺には、木々の新緑と桜が淡い色彩の雲を捧げて、街を行く新人たちの姿が生き生きしています。日脚が伸びて、未だ明るい。和食の創作料理の店へ入って、麦酒片手に今後の調査や公開シンポの企画を話し合いました。蚕豆の塩茹で、和布の天麩羅、雲丹入りオムレツ、白蝦の唐揚げ、クリームチーズ南高梅添え・・・板前のアイディアも結構なものでした。

若い人の多いターミナルのコンビニでは、すでに無人カウンターができ、次々に電子払いで買い物を済ませていく人たちがいました。また連れの2人のスマホへは、メールで校務の割り当てが来たり、近くまで書類を持って行くから捺印を、との連絡が入ったりして、まるで「24時間働けますか」時代の営業マンを見ているようでした。

吾妻鏡と平家物語

清水由美子さんの「『平家物語』と『吾妻鏡』―横田河原合戦記事をめぐってー」(中央大学文学部「紀要」274号)という論文を読みました。史実との乖離を指摘するだけでなく、歴史離れの意図の中に、本文の時代的変遷を見ようという立場から、諸本間で異同の多い横田河原合戦(上洛を目指す義仲と越後の城氏が戦った、平家物語が最初に描く本格的な合戦)を検証しようとしています。

この部分は読み本系諸本では詳しいのですが、しかし諸本間で日付や人名などの基本的な事項に大きな異同があり、一本の内部にもそれぞれ他の記事との重複や齟齬があったりして、本文流動の軌跡をたどることが困難な箇所です。語り本系では大幅に整理削除されていて、一見矛盾がないように見えますが、史実とは1年のずれがあり、巻6と巻7の間、つまりもし六巻本から拡大されたとすればその継ぎ目に当たる、問題の多いところです(長門切には、義仲の合戦記事が多く残っているのも気になります)。

清水さんは『玉葉』『吉記』によって史実の輪郭を想定し、『吾妻鏡』がそれから逸れている点が語り本系平家物語と一致することに注目、語り本系は物語全体の構想に合わせて、地方武士の保元の乱以来の合戦記憶を切り捨てていると指摘しています。また『吾妻鏡』記事の誤りは、源平盛衰記と語り本系平家物語に別々に継承されたと考えた方が合理的であろうとしています。

平家物語の古態は読み本系諸本に残っている、とする近年の研究を推進するならば、源氏、関東武士、地方武士の記事がどこからどのように摂取され、語り本系ではどうして削除されていくのかを追究しなければなりません。『吾妻鏡』は史実どおりではないとして放置したままではいけない、とつよく思いました。

源平の人々に出会う旅 第27回「犬山市・磨墨」

 寿永3年(1184)1月、東国の大軍勢が都に迫ります。この時、梶原景季(景時の子)は、頼朝に名馬生食(池月などとも)を所望しましたが、生食の代わりに名馬磨墨を与えられます。その後、頼朝は生食を佐々木高綱に与えてしまうのですが、高綱は景季に生食を盗んだと説明することで事無きを得ます。有名な「生食・磨墨」の逸話です。

【興禅寺(梶原屋敷跡)】
 時代は下りますが、正治2年(1200)、梶原一族が鎌倉を追放され駿河で滅んだ時、景高(景季の弟)の遺児景親は、乳母お隅の方ゆかりの羽黒(愛知県犬山市)に移住したと伝わります。興禅寺付近一帯が梶原屋敷跡(羽黒城)とされています。

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【梶原一族のレリーフ(興禅寺)】
 興禅寺は、梶原景時目代として尾張国に赴任した時に建立した寺と伝わっています。境内には、景時夫妻の供養塔と梶原一族の五輪塔もあります。

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【羽黒城址
 興禅寺に隣接する竹藪の中に羽黒城址碑が建っています。梶原氏は、本能寺の変(1582年)の際に断絶したとされています。

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【磨墨塚】
 磨墨もまた、羽黒の地で死んだと伝わります。興禅寺に近接する磨墨塚史跡公園の一角に、磨墨とお隅の方の墓と伝わる二つの塚があります。「生食・磨墨」の逸話は人々に好まれる素材だったのか、二頭の名馬伝説は全国各地に点在しています。

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〈交通〉
 名鉄小牧線羽黒駅
     (伊藤悦子)

夕桜

定期検診で歯医者へ行く前に、本屋へ寄りました。『逆流食道炎』というブックレット(わかさ出版 2019)を入手、待合室でぱらぱら読むと、思い当たることばかり。前屈みの姿勢が続く、早食い、ストレス、1日2食、夕食が遅い、おまけに腰痛のため枕を外して寝ていた時期もあった・・・判ってくるとなぜか安心できる。すぐに改善方法が見つからなくても、半分克服したような気になります。ちょっと悩むのは、炭酸の入った麦酒や酸性度の高いワインでなく、日本酒やウィスキーの方が安全と書いてあったこと。どちらも美味しいんだけどなあ。

歯医者では歯茎を褒められ、歯の磨き方を指導されて解放されました。1時間ほどの間に、外では通り雨があったらしい。花桃木瓜が道路脇にも花盛りです。ちょっと遠回りをして東京都戦没者霊園へ寄り、満開の夕桜を観て通り抜けました。花冷えというにはあまりに寒く、風邪を引かぬうちにと急いで帰ってきました。

夕桜でいちばん思い出に残っているのは―名古屋の勤務先から明日転任という日、(図書館長だったので5時までは居る所存だったのですが)風邪気味で我慢できずに4時過ぎに辞去しました。事務職の年配の主任が見送りに出て来てくれて、館の傍にあった満開の桜に、名残の陽光が逃げていくのを、一緒に見上げたことを思い出します。

播磨坂

長野の旧友が上京し、例年通り近場の花見に行きました。今年は彼女の妹さんも一緒です。まず伝通院で、大木2本と枝垂桜を観賞した後、バスで播磨坂へ行きました。ここ10年ほど毎年観に来ていたのですが、今年は満開で未だ散らず、人出も少なく、最高の花見でした。歩きながら見ると、若木を植え足し、周囲の木を剪定し、十分の目配りがされていることが判りました。戦中戦後に植えた染井吉野の寿命が尽き始め、いま手入れしなければ桜の名所はじりじりと喪われていくでしょう。写真は伝通院の桜です。

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大塚駅前の坂を包むように咲く桜並木を観てから、例年入る魚料理の居酒屋へ入りました。山菜の天麩羅、鮟肝、白子のポン酢、芹と鶏のつくねの煮物、菜の花のナムル・・・春を満喫しました。気がつけば3時間以上もお喋りしていました。 

野沢菜は毎冬各戸40kgは漬けるとか、長芋と杏で作ったきんとん(オレンジ色の杏を栗の代わりにした、白いきんとんだそうです)とかの、信濃ならではの話や、今年小学校に入学する孫の時代とか、新元号の話(令月とは新天皇の生まれ月。淑和なら熟語になるが令和では熟語にはならない等々)とか・・・

外へ出たら、知らないうちに雨が通ったらしく地面は濡れていましたが、すこし暖かくなっていました。でもやはり花冷えの街。手を振って別れました。帰宅したら、仕事の連絡メールが真っ黒に来ていました。拾ってきた桜の小枝と麦酒を盆に載せて、ブログを書いています。

春の楽しみ方

スーパーで、小さな蕗の薹を安売りしているのを見つけました。山形産だそうで、親指の頭くらいの大きさ、このくらいの方が料理しやすいと思って買うことにしました。半分は、その日味噌汁に入れました。けっこう苦いのですが、春先は、この苦みが身体に効くのだそうです。我が家ではもう天麩羅を揚げないので、残り半分は、胡麻油を多めにフライパンに布き、揚げると焼きつけるの中間くらいに火を通し、塩を振ってみました。美味でございます!但しこれは酒肴。能力の落ちたこの頃では、毎晩という訳にはいきません。縦4つ割りくらいにして、味噌と味醂と唐辛子で炒りつけてもよかったし、刻んだベーコンと炒めてもよかったかもしれません。

近所の桜を見て歩きました。町内会が花見会場にしている公園には、3本の大木がありましたが、1本は伐られ、2本も大きく枝打ちされて、かつての面影はなくなっていました。若木を植えなくてもいいのかしら。あちこちで染井吉野の寿命が尽きているようです。東大構内には、正門脇に1本、工学部脇に4,5本、40年くらいの樹齢の染井吉野があって、もう散り始めていました。去年、3月31日に満開になっていた赤門脇の八重桜は、未だ蕾です。

どこかで珈琲を飲む心算でしたが、街はカップルで溢れていて、断念。児童館の庭の山椒の木には、黄色い粟粒のような花が咲いていました。1枝失敬しました。若芽を梅干しに練り合わせて、日本酒の友、とつい考えたのですが、今日あたりは休肝日にしないと、と反省し、白い舟形の小皿に載せて、卓上に飾ることにしました。