心敬の句表現

伊藤伸江さんから送られてきた「心敬の句表現―「青し」の系譜からー」(「日文協日本文学」 2017/7)を読みました。伊藤さんは、心敬が文明2年(1470)に自作の連歌と和歌に自注を付けた『芝草句内岩橋』を、このところずっと、先輩の奥田勲さんと共に翻刻し注釈をつけています。その中の「ちらしかね柳にあをし秋のかぜ」と「水青し消えていくかの春の雪」、「夕立はすぎむら青き山べかな」の句について、「青し」という語に焦点を当てて考察した論文です。

国歌大観の電子版が出来て以来用例を博捜することが簡単になり、和歌研究は格段に便利になり、視野が広がったのではないでしょうか。殊に連歌では、本歌はもとより、それまでに蓄積されてきた言葉と景物のイメージが、作品の誕生そのものに関わるのだということを、本論文から学びました。

風、夕立、水―透明で動きのある自然の景物が、青という色をまとって変化していく姿をとらえたところに、伊藤さんは心敬の真骨頂を見出しています。そして「見えぬものに色を見ることで、和歌から連歌の一句へと、表現の複合により、短詩化を」可能にしたのだと述べています。

門外漢には読みやすいとは言えませんが、心敬に心酔してその魅力を語ってくれている論文です。巷には平家語りが流行していた1400年代、連歌の世界で人々は、こういうことに専念していたんだなあと、今さらながら思いました。

 

 

取り戻せるものならば

5歳の子が「もうおねがい ゆるして」とノートに書き続けて亡くなった、という新聞記事は涙なくしては読めません。未だ間に合うものならば、三途の川の手前まで追いかけて行って抱きとめたい。連れ戻したい。何より可哀想なのは、自分がいけない子と思い込まされていたことです。

児童相談所は何をしていたのか、と言いたくなります。親に断られたら、退き下がるしかないのか。日本では、「実の親」至上主義の弊害が大きすぎると思います。親にもいろいろ事情があって、必ずしも子のためにならないことはよくあること。自分を守るために子を犠牲にした母親から、荷を軽くしてやって両方を助ける(つまり、子を引き離す)ことはできなかったのでしょうか。

日本では、養子縁組制度が根付かず、養親になるための条件も厳しく設定されていて、施設に入るか親元で囲い込まれるか、になってしまうらしい。かつて日本テレビで放映された「明日ママがいない」というドラマは、その問題を取り上げた意欲作だったのですが、誤解と誹謗に揉みくちゃにされて、一種の禁忌になってしまいました。

密室状態で一緒にいると、親の感情のはけ場がなく、どんどんエスカレートしてしまいます。そういう場面に遭遇したら、とりあえず呼び鈴を押して、親の感情を逸らすこと。しかし今回のように外部から知られなかったら、児相以外に救出者はいません。数ヶ月、数年だけでも預けられるさきがあったらと思います。複数の家庭が関与し、異世代の見守りが可能な、そういう待避所を、児相の切札として登録しておくようなシステムは作れないものでしょうか、間に合ううちに。

戦後近松研究史の一側面

先輩の原道生さんから抜刷を頂きました。「戦後近松研究史の一側面(その4)―「近松の会」を中心に-」(「近松研究所紀要」28)という連載です。いわゆる歴史社会学派の旗手の1人だった広末保の軌跡をたどり、その点検と再評価を試みるもの。

鳥取大学に勤めた時は中・近世担当でしたし、名古屋・宇都宮では古典日本文学は1人ポストだったので、高校教材に採られるような近世文学の本文はだいたい揃え、研究書も元禄三大文豪と秋成・宣長、それに説経浄瑠璃俳諧仮名草子関係は、一応買ってありました。広末保の『元禄文学研究』『近松序説』もあったはずですが、一昨年、親の蔵書を処分した時に一緒に処分したらしい。本というのは、要らないと思って手放すと途端に、必要になるもののようです。

近松の「女の義理」や、人びとのけなげさからくる封建時代の悲劇については、当時は説得されながら読んだ記憶があります。平家物語が「完了した伝統」で、近松が「完了していない伝統」だという仮説は、現代の平家物語研究はどう受け止めるのでしょうか。古浄瑠璃と平家語りの関係も、今ならどう考えるのか。「民衆」と「ジャンル」という要因を殆ど絶対的なものとして重視する、という態度は現在では賛同されないでしょうね。

本論文の注11に指摘されているように、肝心の主・客が顚倒した誤植がずっと見過ごされるほど、広末始め歴史社会学派の文章は歌いあげ、曳きさらって運んでいく力のつよいものでした。ああいう文章を書きたいと思った人は多いはずです。しかし今や、筆先三寸だけで文学史は構成できません。扇動的でない、でもたっぷりと充実感のある筆致の文学史を、書きたいと思います。

 

泣くな女だろ

学会や会議が続き、普段とは異なるエネルギー消費で、ほとほと疲れました。定年後は、徐々にオーラを消していくことを心がけています。老人として街になじむには、現役時代、とっさに発揮できるよう用意していたオーラは邪魔だからです。が、オーラを失いすぎると、何かの時に言動が不釣り合いになって、思わぬ失敗がある。手探りでその折り合い点を探す毎日でした。

学会や会議に出ると、オーラを発揮する瞬発力が必要になることが、どうしても起きます。一昨日の学会会場でも小さな事件があり、昨日の会議でも、事務方の女性が、その場で言うべきではない愚痴を警告にすり替えて発言したので、オーラ全開!彼女は、私に反撃されたら泣き出しました。これは全然駄目です。「男は泣いてもいい、馬鹿にされるだけ。女が泣くと、それまで積み上げてきた議論が全部吹っ飛んで、その場の同情が集まる。泣くな、女なら」というのが私のゼミの40年間の教訓でした。

やれやれ。帰宅してTVをつけ、「コンフィデンスマンJP」と「ヘッドハンター」をぼんやり視ました。前者は詐欺師集団のコミカルドラマ。脚本と配役と大道具が抜群。小日向文世が楽しそうに、東出昌大がはまり役を演じ、大胆細心の詐欺プロジェクトは何度もどんでん返し。後者は、暗い主演男優と目玉がこぼれ落ちそうな女優との組み合わせのドラマ。若い頃私は、男は大石内蔵助、と思っていました、肝心のことは腹中に収めて、大きな目標を実現するものだと。謎めかしたドラマはようやく、転職斡旋業を武器に世を渡るライバル2人の位置を明瞭にし、主役の黙した部分が語られました。

月曜9時10時にこんなドラマを置くなんて、と思っていたのですが、編成の妙が分かってきました。さあ今週もめそめそ言わずにがんばるぞ、という気になれる―仕事は大石内蔵助。泣くな女だろ。

源平の人々に出会う旅 第17回「越前・火打合戦」

 頼朝と和睦をした義仲は北陸道を目指します。都では平維盛・通盛らが義仲討伐のため大軍を率いて北陸に向かいます。

【湯尾峠】
 『源平盛衰記』には、義仲が越前に派遣した仁科・林・富樫らの軍勢は「柚尾ノ峠(湯尾峠)」に布陣し、燧ヶ城を築いたとあります。松尾芭蕉も『おくの細道』でこの峠を越えています。

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【燧(火打)ヶ城址
 燧ヶ城は嶮しい山と川に守られた北陸道随一の城郭であったため、平家軍はなかなか攻め落とせずにいました。燧ヶ城を遠望したであろう芭蕉が「義仲の寝覚めの山か月悲し」(『荊口句帳』)と詠んだ句は有名です。

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【平泉寺中世石畳跡】
 ところが、平泉寺の長吏斉明威儀師が源氏を裏切り平家に内通したため、燧ヶ城はあえなく落城してしまうのです。

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楠木正成公墓塔】
 平泉寺白山神社境内には楠木正成の墓塔があります。正成が湊川で戦死した同日同時刻に、白山衆徒である正成の甥・恵秀律師の前に騎馬姿の正成が現れたため、この地に墓塔を建てたと伝わります。

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〈交通〉
 湯尾峠:JR北陸本線湯尾駅、燧ヶ城址JR北陸本線今庄駅
 平泉寺白山神社えちぜん鉄道勝山駅
              (伊藤悦子)

中世文学会

中世文学会2日目に出て、研究発表4本を聴きました。近年は資料紹介に類する発表が多く、仏教・説話・中世どの学会も同じような題目が並び、義務感を掻き立ててやっと出かけるような按配でしたが、今日は、中世文学に向き合おうとする姿勢が明確な発表が多くて、いい発表には会場からもいい議論が出る、楽しい学会でした。

伊達舞さんの「『我が身にたどる姫君』の女四の宮―「はなばな」とした特質をめぐって―」は、「はなばな」という形容を鍵に、物語の構造を母娘関係で読み解いていこうとするもの。母娘関係に注目して、女流物語を分析したのが眼目でしょう。

池上保之さんの「『徒然草』第三十二段考―「その人」の解釈をめぐってー」は、兼好を誘って月を見歩く「ある人」が不意に訪ねた家の主が、さりげなく後を見送った、という、その心づかいの主「その人」は、現在では女性と解釈されているが、近世までは男性という解釈が多かったことを取り上げ、性別や恋愛模様と関係なく兼好は人間一般の問題として書いているのではないかという読みの提案で、分かりやすく面白かったのですが、会場はいまいち納得していませんでした。庭や夜の描写、『徒然草』の用語法などから反論が出ました。

中野顕正さんの「能〈野宮〉における聖俗の転換―鳥居・車をめぐるイメージからー」は金春禅竹作とされる「野宮」について、作り物の鳥居と車によって提示されるモチーフの果たす機能を、詞章の解釈と演出の両面から読み直そうとした発表で、能を専門とするベテラン研究者たちとフラットな議論のできる、面白い内容でした。

広木一人さんの「正徹句を含む「応永二十三年二月二十三日『賦何人連歌』について」は、最近入手した巻子装の絵懐紙の紹介。初めて正徹の名がある、1400年前後の北野天満宮奉納連歌懐紙(もとは百韻か)の発見ということでしたが、私には、連歌の方では応永の頃はそういう時代だったんだなあということが印象に残りました。資料展示も和歌・芸能関係のいいものが出ていました(解題リーフレットがないのは残念)。

終了後、正門脇の藤棚の下で、新たな共同研究の打ち合わせをし、本郷通りの餃子店で「これから3年がんばろう会」をやって帰りました。いい夜風が吹いていました。

琵琶

国立小劇場へ「日本音楽の流れⅡー琵琶ー」を聴きに行きました。今井検校の「竹生嶋」が目当てです。国立劇場へは何年ぶりでしょうか。席に着いて、プログラムを開いて、愕然。今井検校は休演、VTRで解説するとのこと。何があったのか分かりませんが、HPででも告知したのでしょうか?今日は、いくつも用があったのを捨てて来たのに・・・しかし会場は平家琵琶が目当てという人は殆どいないらしく、平静でした。

雅楽を聴きながら、音合わせ(音取)からすでに演奏プログラムが始まっていること、楽器が次々に入ってきて始まり、次第に消えて行って終わること、笙がBGMを務めること等々をエキゾチックに感じました。プログラム(薦田治子執筆)に、覚一本平家物語を「音楽作品の歌詞」と書いてあるのは行き過ぎでしょう。九州の盲僧琵琶は、今は晴眼者たちが行事を継承している由。続いて薩摩琵琶「城山」、筑前琵琶「湖水渡」を聴きながら、平家琵琶とは全く異なって、一種の擬音効果のように、激しい奏法を以て合戦場面を描くことに気づきました。鶴田琵琶「壇の浦」は、映画「怪談」のために作曲されたのだそうです。当時映画館で観て、これは平家琵琶じゃないと思ったものでした。あの頃は木下順二武満徹など、日本の古典を現代作品に活かす試みが盛んだったのです。

会場は薩摩琵琶・筑前琵琶にすっかり魅了されていました。戦争賛美の国家戦略文学、と軍記物語を決めつける研究者もいますが、音楽の方が情緒に直接響いてくるのでずっと怖い、と思いました。

薩摩琵琶は男性的、筑前琵琶は女性向き、とよく言いますが、我が家は父親が博多出身なので、彼の高校の同級生(勿論、男子)には、趣味が高じて筑前琵琶演奏家になった人もいたことを聞かされました。六十数年前は、浪曲などと同様、筑前琵琶もよくラジオで放送されていました。琵琶の愛好家は多かったのです。

劇場バスで東京駅まで都心を走りました。最高裁、高裁、桜田門日比谷公園、有楽町・・・若い頃は国会図書館へ通うのによく通ったものですが、もう異国のようです。