説林

伊藤伸江さんの「花園山考」(「説林」65号)という論文を読みました。説林(ぜいりん)はかつて渥美かをる先生が、その後森正人さん、黒田彰さんがよくお書きになった名門の紀要(愛知県立大学)です。伊藤さんの論文は、三河国岡崎の俳人鶴田卓池と刈谷俳人中島秋挙とが、文政7年(1824)3月に三河の花園山麓に滞在して花をめでた日記『弥生日記』をとりあげて、歌枕でもある「花園山」とはどこなのかを考証したものです。結論は岡崎の村積山だということですが、愛知県立大学「文字文化財研究所紀要」に連載されている、『弥生日記』訳注作業(輪読会の成果)の副産物として、さらにひろく歌枕への考察をも含んだ研究です。

いかにも県立大学にふさわしい、しかし地域の文化財紹介にのみ留まらない研究で、地方で勤めるにはこういう素材と研究仲間を得られることが大事です。野本瑠美さんの「手銭家所蔵の古筆資料」(「山陰研究」8)もまた、そういう成果の一つといえるでしょう。

 

梅シロップ

梅を漬けました。梅干しではなく梅シロップ(梅ジュース)とか梅酢と呼ばれている飲料です。もともと頂き物の蜂蜜2L用の空瓶が溜まったので、毎年2kgずつ漬けて近所に分けていたのですが、だんだん重い物を持てなくなり、小梅で漬けたり(ちゃんと出来ます)、1kgに減らしたりしました。一昨年からは従妹に「うちの分も漬けてよ」と言われ、また2kgにしたのですが、その従妹も亡くなりました。

レシピでは梅の実と砂糖は同量、となっていますが、我が家では砂糖は2分の1にします。青梅を洗い、竹串で蔕を取り除き、砂糖と梅とを交互に容器に詰めていきます。膝の怪我のため今年は1kgがやっと。梅と砂糖を同時に買ってこられなかったので、まず小瓶3本に、雛祭の金平糖から紅茶用の角砂糖まで家にありったけの砂糖(我が家は煮物にも珈琲にも砂糖を使わない)を投入、酢を足したものと砂糖だけのものと2種類作りました。翌日砂糖を買い足すまで、笊に広げた梅の実の甘い匂いが家中に漂いました。

これからの暑い時季、甘酸っぱい天然飲料を冷たく冷やして飲むと、一遍に疲れがとれます。梅シロップやレモンの蜂蜜漬以外では、楊梅(やまもも)の実を薄甘く煮て、煮汁と一緒に冷やして飲むのもお奨め。楊梅の実は傷みやすいので生では店に出ませんが、木は街路樹や公園の植え込みに使われ、熟した実が空しく落ちて地面を汚していることがよくあります。亡父の回顧談では、博多の街では朝、山から採ってきた楊梅の実を天秤棒で担いで売り歩いたそうです。勿論、子供たちは勝手に山中でおやつ代わりに食べたらしい。大河ドラマ黒田官兵衛」で主人公が、木登りしようとしている少女(後の愛妻)に採ってやったのが楊梅でした。

夏仕様の表紙

ブログの表紙を夏仕様に替えました。ハワイの浜辺を描いたクレパス画で、表紙のサイズに合わせ、椰子の木が分かるよう中央部分を残してトリミングされていますが、原画はデュフィばりの速描で、点在する浜辺の人々をお見せできないのが残念です。

 

原画:松尾金藏「ハワイの浜辺」  デザイン:村松美幸 画面構成:伊藤悦子

源平の人々に出会う旅 第6回「神戸・福原遷都」

 治承4年(1184)5月30日、以仁王の乱の鎮圧直後、突如清盛は翌月3日に福原遷都を行うと公表します。まさに青天の霹靂で京都は大混乱になりますが、清盛が遷都の日を2日に繰り上げたため、ますます混乱を極めます。

【雪見御所】
 清盛は以前から福原の別邸に居住していました。『平家物語』諸本によると、「花見ノ春ノ岡ノ御所、月見ノ秋浜ノ御所、雪見原ノ萱ノ御所、船見浜ノ浦御所」(『源平盛衰記』)などがあったようです。

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平頼盛山荘(荒田八幡神社)】
 慌てて遷都したものの、新都造営はこれからという有様でした。安徳天皇は頼盛(清盛の異母弟・池殿)邸に入ります。現在の荒田八幡神社の地一体が頼盛の山荘跡地で、源通親『高倉院厳島御幸記』には、厳島御幸の帰路、頼盛邸で笠懸・流鏑馬を行ったことが記されています。境内には「安徳天皇御在所址」碑が建っています。

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【萱の御所】
 清盛は鳥羽殿に幽閉していた後白河法皇を福原に移し、粗末な板屋を造って監禁します。その様子から、童部達は「牢の御所」と呼んでいました。『源平盛衰記』は、11月11日に安徳天皇が新内裏へ移ると同時に、後白河法皇も牢の御所を出て、夢野(兵庫区夢野町)の新御所に移されたとしています。

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〈交通〉
神戸電鉄湊川駅・市営地下鉄大倉山駅・JR山陽本線和田岬
                       (伊藤悦子)

空蝉の家

親の家を売りました。50年前は南西に富士山、北には年に何度か筑波山が見え、護国寺の杜では時鳥の鳴くのが聞こえ、丸ノ内線の1番電車の出て行く響きが枕につたわってくる家でした。感無量というか脱力感というか、一種の喪失感が疲労となって被さってきます。同時に、背負っていたものが無くなって、自分が自分になったような気もします。

帰宅して我が家の鍵を回すとき、キーホルダーが軽くなっているのに気づきました。20年前、地方勤務の頃は、東京の家と地元の家の鍵、研究室の鍵、親の家の鍵と、じゃらじゃら吊っていたのでしたが。

堀内孝雄が歌う「空蝉の家」という歌があります。田久保真見作詞。「生まれた家を売りに来た」で始まり、「昭和に生まれた不器用さ」と親を偲び、「命の限り蝉が鳴く」というリフレーンをもつ歌です。盛夏の蝉時雨の中の、怖いくらいの静けさ、自分の幼年時代から今までの多層的な時間を感じさせます。

歌手への提言ー力まないで、淡々と歌って下さい。「命の限り」は蝉が歌うから、語り手である貴方は、さらりと歌った方が聴き手を引き寄せます。プロモーションビデオはそういう歌いぶりなのですが、TVの歌番では劇場型の歌唱で,聴くのがつらい。

5月が終わりました。新陳代謝が変わる季節だからか、5月は寝ても寝ても眠い月です。勤めている頃は殊に、新学期のどたばたがようやく一廻りし、演習など学生の顔ぶれを見て授業内容を調整する時期でもあり、春休みに用意した講義ノートも受講者の反応によって組み換えが必要になったりしました(ちなみに、前年度末に15~30回分の授業内容を詳細に公表させる最近の傾向は、授業はライブであるという事実を無視していると思います)。

黄金週間は神様が教員に下さった執行猶予、というジョークがありましたっけ。連休は泥のように眠ったものです。体の中から、あとからあとから疲労が沁み出してくる気がしました。退職後その感覚を忘れていたのですが、今年の5月はなぜか連日泥のように眠り、ときには夕食のお箸を持ったまま眠る、というていたらく。現職時代と違ってせいぜい読みものくらいしかしていないのにー後期高齢者目前で身体の変わり目なのでしょうか。

それにしても何で読んだのだったか、「泥のように眠る」とは巧い比喩だと思います。泥という魚(虫?)の姿は想像できませんが、自分が流れるような菎蒻体になって横たわっている姿は目に浮かびます。

中古日本治乱記

今井正之助さんの「『理尽鈔』と『中古日本治乱記』『後太平記』ー『太平記秘伝理尽鈔』研究』補遺稿3ー」(「愛教大大学院国語研究」25)という論文を読みました。長くて記号が多くてしかも容易に漢字変換できない題名は、今井さん畢生の大著『『太平記秘伝理尽鈔』研究』に書き洩らしたことの補遺の3本目、という意味です。すでにこのことから分かるように、今井さんは、並みの体力と根気と几帳面とではとうていできない研究を続けてきて、その結実が『『太平記秘伝理尽鈔』研究』(汲古書院 平成24)でした。

さて『中古日本治乱記』は豊臣秀吉の祐筆山中山城守長俊による膨大な室町・安土桃山史だそうですが(私は見ていない)、慶長7年の自序や太田資方の跋文によれば慶長初めの成立のように見えるが、今井さんは『後太平記』が『太平記秘伝理尽鈔』を参照し、『中古日本治乱記』はその両書を併せ参照しており、序・跋・再跋ともその内容は仮託である、実際の成立は『後太平記』が刊行された延宝5年(1677)以降であると考証しました。

近世の史書・軍記の記述が、さしたる根拠もなく近代の歴史記述に受け継がれてきた(読者は知らずにそれを信じてきた)例が、近年になって指摘されることが多くなりました。華やかな思想史の土台には、こういう地を這うような作業の成果が埋め込まれていて初めて、読むに値するのだと思います。