竹富島の猫

観光客が餌をやるので猫が増え、注意書が出ている観光地があります。美しいビーチで有名な、竹富島コンドイ浜もそうでした。浜辺のテーブルに弁当を置いた途端、仔猫が卓上に飛び上がり、当然の如く突進して来たので、頭をひっぱたいたら、いっちょまえに、シャア!と威嚇されました。未だ掌に乗るような仔猫です。「きみが食べる場所はここ!」と言って、肉片を地面に落とすとすぐ飛びつきました。

ふと気づくと、大人の猫が2匹寄ってきて、1匹は私の座っているベンチの端に、もう1匹は地上に座って、私を見て見ぬふりをしている。両親らしい。「きみらはここ!」と言って、また肉片を落としてやると、親猫も下に降り、肉片を咥えてベンチの上で食べ始めました。地上では砂まみれになるからでしょう。

15分もすると、猫たちは卓上には上がらず、投げられる餌を待つようになりました。その間に私は弁当を食べ終わりましたが、通り過ぎたカップルの男性の方が、何故か傷ついていて、「きみら、きみらって・・・」とぼやいている。職業柄、年長者が若い者に言い聞かせる口調で猫をしつけていたのかもしれません。自分が言われているように聞こえたのでしょうか。

それにしても、あの親猫2匹の間合いの取り方は絶妙でした。私と仔猫の両方を視野に入れながらそっぽを向き、親同士の視線もそれとなく交差している。人間でもなかなかあの真似は出来ません。もう10年近く経ちますが、今も彼らは白砂の浜で、揃って暮らしているのでしょうか。

益子

益子参考館へ行きました。亡父の愛玩していた濱田庄司の作品を受け入れて戴き、新収蔵展をして下さっているとのことで見に行ったのです。濱田庄司壮年の作品は、意外にも館の収蔵品が少なかったとのことで、喜んで頂き、丁寧に陳列して頂いていて安堵しました。そしてさらに意外だったのは、「使われていたのでつやがある」と言って下さったことです。美術商などは「使用痕」と称して嫌うのですが、窯元の眼からはただ保存されてきただけの器はつやがなくなるが、使ってきた物はいきいきとしたつやがあるとのことで、我が家ではジョッキでも皿でも日常の食卓で使っていました。大皿には正月の蜜柑や林檎を盛り、角鉢には夏の冷や奴を、黒い小皿には雲丹を1口載せて酒宴の最初に出しました。

器物たちも落ち着くべき場所へおちついて、これからは静かな余生を送れることと思います。雨に濡れた林の中の参考館は、木と土の温もりにつつまれて、紅葉が少しずつ始まっていました。

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新収蔵特別展は、益子参考館内濱田庄司館(栃木県芳賀郡益子町益子3388)にて 

12月17日まで(月曜休館)9:30~17:00開催されています。

 

下絵か模本か

山本陽子さんの「京都市立芸術大学所蔵「平家物語絵巻」粉本について」(「説話文学研究」52)を読みました。従来、絵巻制作のための下絵とされてきた京都市芸大蔵「平家物語絵巻」が、じつは下絵でなく、静嘉堂美術館・京博などに分蔵される白描の平家物語小絵巻の(現存しない)巻12を透き写しにしたものであろうと結論づける、意欲的な論文です。画像をデジタルで重ねたりひっくり返したりできるようになって、考証作業が容易になったことが幸いしています。仮説としては大いにあり得ることだと思います。

ただ、口頭発表の際にも、基本的な細部の詰めがちょっと危なっかしく思われた点がいくつかあり、そもそもこの「模本」の制作年代はいつ頃なのか、分かる範囲で示しておくべきでしょう。例えば口頭発表時に指摘された、清盛を迎えに来る地獄の車の図は『平家物語図会』や版本挿絵にはあるので一概に珍しいとは言えないこと、また底本とされた平家物語本文は整版本(流布本)か覚一本や京師本・葉子十行本なのか(巻12の記事の多寡が違う)は、制作年代と関わってくるからです。

殊に後者は、模本がいう「さうし」は、多分平家物語本文のことであろうと考えられるので、重要です。恐らく、白描小絵巻(伝光信本)の方は画工の創意(または独善)による本文離れがあるのに、模写する際には本文を規範として参照し校訂しようという意識があったのではないでしょうか。

林原美術館蔵の平家物語絵巻が量的にも質的にも有名ではありますが、平家物語の絵画資料はあれだけでなく、また絵巻形態だけを基準に考えるべきでもないと思います。白描小絵巻は美術的にも優れたもの(だと私は思っています)ですので、もし山本さんの想定のように十二巻揃だったとすれば(厖大な分量になるはず)、誰が作らせたのかも気になります。文学と絵画資料との関係は未開の沃野ともいうべき分野で、方法論も手探りするしかないのが実状ですが、細部にも注意を怠らず、いろいろな角度からの試みが必要なのではないでしょうか。

濱田友緒作陶展

益子焼の濱田友緒さんの作陶展を見に行きました。伝統的な柿釉の重量感のある膚にモダンな赤や白の指打掛が明るく能動的です。藍鉄塩釉の若さと渋さの折り合った落ち着きも新鮮で、思わずマグカップを1つ買ってしまいました。濱田友緒さんは濱田庄司の孫に当たり、今回は50歳記念の催しとのことです。

益子も東北大震災の被害を受けたそうですが、却ってその復興をばねとして、登り窯を40年ぶりに焼成、新しいプロジェクトが始動したとのこと。展示会場には濱田ファンが続々訪れていました。14日(土)14:00からはギャラリートークがあります。

第9回濱田友緒作陶展  10/11(水)~17日(火)10:30~19:30  

 日本橋三越本館6階(最終日は17:00まで)

 

久しぶりに三越へ来たので、いろいろ買い物をしました。おしゃれなウェストポーチや4E靴などの老人グッズです。お客も老人が多いが、店員も高齢とみえて話し声が大きい。外界とは別の時間が流れているようでした。さすが三越、と思ったのはお釣りがすべて新札で来ることです。アパレルを見る前に持ち金が無くなりました。最後に書籍売り場へ寄って、カズオ・イシグロの本を何か買おうとしましたが、版元切れで1冊もないとのこと。苦笑いして、来年の手帳を買って帰りました。

 

商品開発

名古屋には「二人静」という銘菓があります。三盆白で作った小さな紅白のお菓子で、箱には源氏物語を思わせる男女の絵が描かれています。名古屋に勤めていた時、中古文学専門の先輩が亡くなりました。『国書総目録』を作るアルバイトで御一緒したので、御供物を送ろうと考え、「二人静」がぴったりだと思って、デパートの名店街へ出かけました。「御霊前」の熨斗を、と言ったら、冠婚葬祭にうるさい名古屋のこと、店員が頑として、これは祝い菓子だから、と承知しません。私がちゃんとお手紙を書くから、とやっと説得して発送手続きを済ませました。奥様には、こういうわけでもとから紅白のお菓子ですが、御霊前にお供え頂き、お二人差し向かいで静かにお茶を召し上がって下さい、と手紙を書きました。

福岡にも「鶴の子」という紅白のマシュマロで作った銘菓があります。結婚式や正月に子孫繁栄を希う祝い菓子です。檀一雄の奥様の好物だったので、亡くなった時には特注で紅抜きを詰めて貰い、御霊前にお届けしました。

さて、名古屋の「二人静」。3ヶ月ほど経って店の前を通ったら、紅白でなく紫と白の菓子を白描の箱に入れて、不祝儀用として売っていました。あの商品開発のきっかけは私が作った、とひそかに思っています。さすがに「鶴の子」の方は(日持ちしない)、特注するしかないようです。

柚子100%

隣町まで冬のパジャマを買いに出かけました。ついでに区役所のエコポストへ、もう似合わなくなった夏物を投げ入れ、大手スーパーの食品売り場に寄って柚子100%の小瓶を探しましたが、置いてないということでした。去年はブームでしたが、一時の流行だったのですね。常備調味料として重宝なのですが・・・

「桃栗3年柿8年」と言いますが、続けて「柚子の莫迦11年」とも言うそうで、柚子は栽培しても採算がとれないものとされてきました。数十年前、山口県の青年商工会議所が山に柚子を植え、地産興業を試みていた頃のこと―ある晩、父が柚子の絞り汁の1升瓶を持ち帰ってきました。ラベルも説明書もありません。どうしたのかと訊くと、ちょっと前、仕事上のパーティで会った山口出身の知人から、しきりに柚子の話を聞かされたが、互いにグラス片手の話、相槌は打ったが内容は忘れてしまった、今日、その知人がやってきて、「おい、こないだ話したあれだ!」と、机上にどんと置かれたので、聞き返すわけにも行かず「あああれか!」と言って貰って来た、という。柚子の絞り汁1升なんて、初めて見る物です。どうしていいか分かりません。せいぜい鍋物のポン酢くらいしか使い道を知らず、酢の物にするには癖が強すぎる。風呂に入れてみたり(?!)しましたが、結局数年かかって消費しました。その後、1合瓶と2合瓶にしゃれたラベルを貼って、商品化されました。

ちょっとずつ飲むと健康にいいそうで、今思えば蜂蜜でも入れて毎朝飲めばよかったのでしょう。我が家ではそういう先端商品が時折持ち込まれ、後日、ああ、あれか!と納得したりしました。

街はハロウィンにかこつけた宣伝が始まっていて、南瓜だらけ。空心菜(塩と胡麻油で炒めると美味しい)や、むき栗(鶏肉と煮付けると美味しい)、トレビスやルッコラ(サラダの目先を変えてくれます)を買って帰りました。

ブルージーンズ

30代で働く女性を見ていると、触れば縁で手が切れるような、トランプカードを連想することがあります。できるけど、あぶない、怖い、取り扱いには注意。

30代で都立の定時制高校(勿論、生徒は服装自由です)に勤めていた頃、白墨の粉を浴びるので、ソフトデニムの上下を買って着ていました。ある日、おじいさんの教員(いつも背広姿)が職員室の遠い席から近づいてきて、「先生は何ですかな、いつもそういうものを着ておられるが―それは高い物ですかな」と訊かれました。定時制は、生徒の滞校時間が短いので猛烈に忙しい。ふつう、そんな話をしている暇はありません。ジーンズは教員には相応しくない、と言われているのだと察し、「ええ高いもんですよ、¥1万しました」と言い返しました(当時、私の月給は手取り10万ちょっとでした)。

その学校には女性教員は6人いましたが、1人は定年直前のおばあさん、もう1人は冗談のまったく解らない人(いつもフレアスカートかワンピース)で、残りの4人(1人は体育の教師で、シガレットパンツが素敵でした)でこの話をすると、あっ、私も言われた、私も、とのことでした。男性教員はどんなラフな格好をしていても注意されないのに、これは差別だということになり、翌日、示し合わせて4人一斉にジーンズを着ていきました。例の老教師は一目見て黙り、大成功でしたが、困ったことが起こりました。かのフレアスカートの女性教員が、「貴女たち、揃ってピクニックに行ったんでしょう!私に内緒で」と誤解し、しかし私たちは真相を説明出来ず、ずっと責められ続けたのです。

あの頃は毎日が真剣勝負、我ながら抜き身を引っ提げて歩いているようでした。夜も遅く、酔漢まじりの電車の中、「オレはオレだあ」という、自分を見失わないための呪文を唱えつづけて帰りました。