美濃国便り・明治13年篇

岐阜の中西達治さんから、「安積開拓計画(士族授産)と斯文学会創設(儒学再興)―明治13年の秋月胤永」(「金城学院大学論集(人文科学編)18:2)の抜刷が送られてきました。中西さんはこのところずっと、戊辰戦争後、一時美濃の高須に蟄居した秋月悌次郎(胤永)の伝記を書き続けています。今回は若松に戻った秋月が、和漢学復興のための斯文学会創設と、一族を挙げて地元の士族授産計画に関わろうとした時期、明治13年を中心に取り上げています。

私は幕末・維新期の歴史には全く無知で、関心もなかったのですが、中西さんから定期的に送られてくる秋月伝を読むうちに、いろいろ考えさせられました。殊に戊辰戦争の悲劇の後、当事者たちや明治新政府がその後始末にどう関わったのか(あるいは関わらなかったのか)を知ると、現代、未来の日本の問題と無縁ではないと感じます。

本論文によれば、明治9年に若松県・磐前県を併合していまの福島県ができ、県参事中条政恒が元米沢藩士の県令山吉盛典に邪魔されながらも、新政府の大久保利通に、斗南から戻って生計に苦しむ旧藩士のために、安積原野の開拓を陳情したそうです。明治天皇奥羽地方視察を特に佐々木高行(後に元老院副議長)に命じ、彼は秋月とも懇意だったので話は進み、秋月の嗣子胤浩は一族挙げての移住計画を立て、県は入植者募集を始めたものの結局実現しなかったというのです。その間胤永は、岩倉具視が日本の洋風化の行き過ぎを心配して作った、斯文学会の実務責任者にもなっています。

大河ドラマは今、もう一つの「八重の桜」―勝ち組でなく負け組の物語を制作すべきではないかしら。福島復興、政治の選択、歴史の審判、戦争の遺産・・・現代の我々が自らの時代責任として選ばねばならない問題が、そこにあるような気がします。