美濃国便り・梅花篇

岐阜の中西達治さんのすごもり通信が来ました。「老人とウメ」と題されています。

吉川英治の『私本三国志』に出合ったのは中学時代、飢えと渇きに悩む負け戦の手勢に向かって、曹操が「あの山を越えると梅林があるぞ」と士気を鼓舞したという、梅酸止渇のエピソードを夢中になって読んでいました。

ウメはもともと帰化植物だったとか、奈良時代の官人の梅花好みは、ある種、舶来品志向の最先端だったということでしょうか。

百敷の大宮人は暇あれや梅を挿頭(かざ)してここに集へる(作者不詳 万葉集

百敷の大宮人は暇あれや桜かざして今日も暮らしつ(山部赤人 新古今集

万葉集から新古今集へ、梅から桜への景物の移り変わりの中に、「あるのかなあ」と気にする文化形成期の大宮人の姿のさわやかさに対して、「あるのだなあ」という文化欄熟期の大宮人のアンニュイ感を対比的に読み解いた、『古文芸の論』(高木市之助)のレトリックに魅せられたのは大学時代でした。(中西達治)】

中西さんは私よりちょっと年長なので、高木市之助の論に魅せられた記憶が辛うじて共通体験、私は吉川英治の「大衆性」に、少々退屈しました。

さらに中西さんは、会津戦争の後始末をした秋月悌次郎が、64歳の2月、故郷の姉に書いた手紙について詳しく紹介しています。秋月悌次郎は美濃高須(中西さんの地元)に謹慎となり、晩年は第五高等学校教授を勤めました。明治20年、息子を連れて熱海に湯治に行き、80歳前後の姉に宛てて、紅白の梅花の押し花と自作の漢詩と共に、父や祖父の享年を越えた喜びを報告した書簡です。中西さんはこのところずっと、秋月の伝記を追っています。まもなく1冊にまとまるでしょうから、詳細はそれで御覧下さい。