『今鏡』後三条紀の構造

蔦尾和宏さんの「『今鏡』後三条紀の構造」(「国語国文」4月号)という論文を読みました。歴史物語『今鏡』は、後三条天皇に対しては他の天皇よりも多く筆を費やし、すべらぎの上巻・中巻の「司召」「手向け」「御法の師」の3章を充てていますが、なぜか「御法の師」では東宮時代に戻って逸話を語っています。本論文は「御法の師」章の意味と配置について考察したものです。

最初に『今鏡』後三条紀には、『続本朝往生伝』を和訳したような文章が少なくとも10箇所ある、と指摘しています。しかも単なる出典というだけでなく、「司召」「手向け」の構成そのものが『続本朝往生伝』の枠組に則っており、「御法の師」はそれから外れているというのです。『続本朝往生伝』と『今鏡』との間で朧化や配置換えが行われた部分からは、史実性を重んじる『今鏡』作者の意図や、後三条時代への評価が窺えるとして読み込みを試みています。

続いて「御法の師」には東宮時代の後三条の社会的無力さが描かれており、似たような境遇だった敦明親王と対照させ、後三条には登極の天意があったことと、その恭謙な人柄を暗示しているのだと、『今昔物語集』巻20-43話を補助線にして述べています。『今鏡』は「司召」で学才ある東宮の、顕の世界での奮闘を描いた後、「御法の師」では冥の世界から彼の登極を正当化したのだ、と結びます。

興味深い逸話が一杯詰まっているのに何故か歴史文学としては面白くない(小粒な印象の)『今鏡』も深く読み、広い視野で論じると、こんなに面白くなるのだ、と思いました。送り状には「育児を口実に論文投稿を怠けていた」ことへの反省が書いてあって、男子にも家事育児が言い訳になる時代になったのだなあ、と感無量でした。