慄然

昨日の朝刊(朝日 東京13版)を見て慄然としました。「「人生100年」の現実」という特集で、宗教学者や医学ジャーナリストが書いているのですが、その論の蕪雑さ、短絡性(生命に対する畏れがない)に、誇張でなくぞっとしたのです。約めて言えば、保険制度維持のために延命措置辞退を推奨、また安楽死尊厳死制度化の議論を始めよとするのですが、臨床倫理学の分野でも、最近しばしばこういう主張がされます。

医学ジャーナリストは、「胃瘻や人工呼吸器、昇圧剤などを使うか使わないかを本人が事前に意思を示すことを義務化し」「延命を希望しない人は保険料を免除」「論議が進まない責任はメディアにもある」と書き、宗教学者は「日本でも死の規制緩和に向けての議論を始めるべき」と主張しています。

私は尊厳死という語が嫌いです。言葉ばかり美しいが実体がない。大事な人を複数、見送ってから、あるいは自身が臨死を体験してから言ってくれ、と思います。死に瀕した時の状況はさまざまで、予め線引きしておくことは非現実的だからです。本人の気持ちも、周囲の条件もその時々に変わります。生老病死はままならないもの、人間が一律に決定できるという思い上がりは、ほどほどにしておくべきです。他人を巻き込まずに実践してから言え、他人の生死には口を出すなと言いたい。

現在でも高齢者の保険制度は別枠になっています。それ以上は個別に、現場の医療関係者と本人と看取る者とで決めていくしかない。死に方は極めて個別的なもの、究極のプライバシーです。「死ぬときくらい、好きにさせてよ」と言った個性派女優の言葉には、みっともなくもがき続ける自由も含まれていたと私は思っています。

メディアの責任とは、医学的な事実と看取りの体験談を、淡々と伝えることでしょう。