雨の丸の内

梅雨入りしたばかりだというのに、梅雨明け直前のような土砂降りの雨。風も出て来た夕方、丸の内のレトロな会館で、2度目の会議がありました。審議材料は多かったのですが、議長の手綱捌きのおかげでどうやら時間内に終わることができました。

応募書類を書く若い人たちへの苦言-先行研究を挙げるのに、研究者の苗字と発表年だけを羅列しても、読む方には何のことだか分かりません。人に見せる書類は、必ず相手の身になって読み返すこと。また、何らかの審査を受けるような書類を初めて書く場合、指導教員か信頼できる先輩に見て貰うのが賢明でしょう。教員や上級生は、当今、それも義務のひとつと考えるべきです。競争的資金を獲れることが、大学人必須の能力とされる時代になったからです。

会議には全国各地から様々な分野の大学教授・名誉教授がお見えになっていたので、審議の後、いろいろな話題が出ました。私からは、美術館や大学で活躍している若い人たちの近況と業績を御披露しました。

終了後、現役教授2人と、新丸ビルの上へ上がって、汽車の時間が来るまで麦酒を呑みながら雑談をしました。1人はこの春から副学長、1人は附属学校長経験者なので、現今の大学のありよう(特に人文系)が、いつからこうなったのか、今後どうなるのか、という話になりました。西洋史のゼミは英語でやっているとか、デザイン教育の素材は殆どPC内に保存しているとか、私は時代の進行を見せつけられる思いで聞きました。

吹き降りの雨の丸の内。ビルの窓ごとに灯りが滲んで見えます。月曜日はレストラン街も空いているそうで、マスターからまたどうぞと言われ、来年ね、と言って出ました。

紳士靴

昨日今日、近世文学会が開かれ、これで今年上半期の国文関係の学会は一通り終わります。昨日、近世の懇親会場で鞄を取り違えられた本屋さんが、ツイッター周章狼狽していました。近世の懇親会はかつては樽割りで始まるので有名、酒豪揃いが徹底的に呑む懇親会なので、さもありなんと思いました。

5,60年前の学会翌日は、傘や靴の取り違えの後始末で、研究室助手は大変だった、と先輩から聞かされたことがあります。当時の紳士靴はどれもまったく同じようで、脱ぐ時に手持ちのリーフレットなどを目印に差し込んでおく人もありました。老舗の料理屋には、一目で客の履物を覚える、伝説の下足番がいたりした時代です。

恩師の市古貞次先生は助手時代、久松潜一先生が宴会から帰られる時、玄関で決まって「市古君、僕の靴どれかな」とお訊きになり、内心、そんなこと分かるか、と思いながら、「さあ、どれでしょう」と言っていると、久松先生が「あれかな」と仰言る。「あれでしょう」とお答えすると、その靴を履いてお帰りになるのがいつものことだった、と回顧談をされていました。

本屋さんの鞄はぶじ見つかったようです。めでたしめでたし。

 

梅雨入り

関東は梅雨入りした、との発表がありました。昨日は雨に濡れそぼった雀が我が家の石榴や梔子の枝に潜り込み、暫く友を呼んでいました。梔子につく青虫を食べてくれるので大歓迎です。今朝は買い物に出ただけで汗が流れるほどの湿気でしたが、午後からは薄日がさし、涼しい風が吹いて、静かな土曜日になりました。

数日続いた暑さで、ロベリアがぼろぼろになり、花屋を廻って植え替えの苗を物色しましたが、アゲラタム(郭公薊)とマリーゴールドしかない。マリーゴールドは土中の雑菌を退治してくれるそうですが、盛夏の太陽に負けずに咲き続ける強情さが、好きになれません。我が家の郭公薊は越冬に成功し、さわやかに咲いています。店ではがっちりした、柔道の選手のような草形で出ていますが、我が家は挿し木で増やしたため、野の花のように細く、英吉利式庭園でミントの叢に混ぜて植えたらいいだろうなあ、と思わせます。切り花にするとすぐ発根し、どんどん増えるので、1鉢は知人に分けました。

石榴が散り始めました。子供の頃は、梅雨明けに咲く花で、露草の青と共に記憶しているのですが、今は時季が早くなったようです。梔子の蕾がつぎつぎに出てきたのが嬉しい。鉢が小さすぎて苦しがっているのは分かっているのですが、これ以上大きくすると私だけでは動かせないので、我慢させています。毎年喜んでくれる肉屋の女将や、介護施設にいる叔父の所に持って行けるくらいの数は、咲いて欲しい。そう思って、せっせと水やりをしています(暑さに乾くと蕾が落ちる)。

すこし寒いくらいの風が家の中を通るので、今夜は酒に燗をつけよう、と考えながら、細かな本文校合の表をああでもない、こうでもないとためつすがめつした1日でした。

運転免許

高齢者が運転する自動車事故の報道が目につきます。死傷事故は論外ですが、物損事故であっても、晩年に不祥事を引き起こすのは残念なことです。瞬発力や総合判断力が、知らず知らずに落ちているのに自分では気がつかない(気がつきたくない)のでしょうが、一方で、体力が落ちるからこそ機械の力を手放したくない心情も解ります。

私は運転免許を持っていないので、どうして、アクセルとブレーキを同じペダルで操作しなければならないのかが理解できません(まさか乗馬時代の伝統ではないでしょうが)。殊に、ブレーキを踏まねばならないような非常事態に、真逆の結果を生む可能性が近接していること、それも足の力の入れ具合といったような微妙な操作で決定される仕組みが、未だに技術的に改善されないのは、関係者の怠慢ではないかと思っています。

名古屋勤務時代、老後のために免許を取ろうと思い立ったのですが(名古屋では、車の免許を持っていないと変人扱いされる)、自動車学校の予約時間を知っているかのように校務が入り、とうとう実技試験にたどり着けませんでした。その際に感じたことは、機械の力は正負ともに莫大だということ、そしてこんなに多くの人が運転したがっているのに、車は何て小むつかしい操作が多いのだろうということでした。

僻地などやむを得ない事情はあるにせよ、高齢者の運転は避けた方がいいには違いないでしょうが、なら、高齢者でも行きたい時に行きたい所へ自由に行ける手段が、もっと工夫されてもいいのでは。タクシーは金銭的な問題だけでなく、運転手と2人きりで知らない土地へ行くには不安もあります(暴言を吐く運転手や地理を知らない運転手に遭うこともある)。公共交通機関では乗り降りするまでが困難(駅なかが歩きにくい)だったり、重い荷物を自分で持ち運ぶ不便もあります。何かいい知恵はありませんか。

ガクアジサイ

先週、通りすがりの家で気前よくガクアジサイを分けて貰った時、じつは内心、紫陽花は水揚げが難しい、貰っても手がかかるだけかも、と思ったのでした。しかしせっかくの機会だからと、大ぶりの花のついた枝を5本、提げて帰り、とりあえずバケツの水に投げ込み、あれこれ用事を済ませてから、備前の壺に活けました。大きな葉を10枚もむしったのですが、その生命力に惹かれて水洗いし、野菜庫に入れておきました。

ネットで調べようとしたら、漢字変換は「額紫陽花」と出る。萼紫陽花だとばかり思っていたのですが・・・外側にある装飾花はじつは萼で、内側の粒々が本物の花、両生花です。額縁に囲まれた花のようだから、と説明されていましたが、これは近年の園芸業界の説明なのかもしれません。

迅速な処理がよかったのか、そのまま萎れず、今日も卓上に存在感を示しています。曲がっていた花茎は一晩で上を向き、2日もすると中心の両生花がぷっ、ぷっ、と開き始め、葯が輪を広げました。外輪の装飾花も白から水色、赤紫と次第に色づいてきます。萼紫陽花は淋しい、と思っていましたが、なかなか豪華になりました。

剪ってくれた時に訊いたら、娘が中学の部活で活けた枝をちょっと挿したらついた、もう20年も経っているとのこと。なるほど、殆ど家を圧するほどの大きな株になっています。御礼に我が家の鉢の薔薇で作ったポプリを2瓶、そっと戸口に置いてきました。

葉の方は、たしか毒があったなあと調べると、直接食べなければ大丈夫らしい。箸置と江戸切子の赤い盃を載せてみました。冷やした酒は信濃の松牡丹。セロリの漬物や冷奴、ポテトサラダ、鰹など季節の肴を並べて、夜を楽しんでいます。

丸の内の夕暮

丸の内のレトロな会館で会議がありました。今年は審議材料が少なかったので、会議は早めに終わりましたが、一服しながら様々な情報を交換しました。メンバーはいずれも人文系の大学教授・名誉教授ですが、専門以外にも詳しい分野があり、さらにそれ以外に一流の趣味をお持ちの方々ばかりなので、話題は多岐にわたりました。

中でも感慨を籠めて語り合われたのは、自分たちより年上の世代の元気さ、そして今どきのネット社会の行方についてでした。90代で8時間踊り続けるダンス愛好家の話、一日の仕事が終わった後、研究室の全員を集めて軽食を摂りながら各人に指導を与え、その後カラオケへ行き、逐次帰って行く者を見送って麻雀を始め、しかし翌朝は1時限目から機嫌よく講義をしたという上司の話・・・あの世代はつよい。

ネット上に虚偽の情報をばらまかれても、削除するのは極めてむつかしい、流す方はかるい気持ちであっても影響は甚大なのに、小学校からプログラミングを学ぶ時代、親の力では、被害に遭っても与えても、防ぐことが難しくなるだろうという話。またゲームの世界での、虚実綯い交ぜのストーリーについて等々、呆然と立ちすくむような話題があれこれ出ました。ITはいわれのない万能感を与えるが、とっさにそれを否定するのは難しい、自分の身丈に合った言動をという指導は、一瞬ではできないのです。

人文学には何ができるのか、短絡的に「世の中の役に立つ」とは言わない方がいいかも、と考えながら、梅雨入り前のあかるい夕暮を帰りました。

 

女学生の教養誌

『女学生とジェンダー 女性教養誌『むらさき』を鏡として』(今井久代・中野貴文・和田博文編 笠間書院)という本が出ました。450頁を超え、執筆者は近代文学研究者を中心に30名を超えています。1934年から戦時中の一時中断を経て現在も発行されている雑誌「むらさき」を軸に、近代日本の女子高等教育の歴史を検証する企画で、編者3人が勤務する東京女子大学100周年に沿う結果になったとのこと。

紫式部学会発行の雑誌「むらさき」といえば、岩佐美代子さんや故三角洋一さんが活躍している場、という程度の認識しかなかったのですが、本書を読む内に、間接的に縁のあった人名や大学名が網目のようにつながって、日本近代の女子大学史に出会ったことになり、蒙を啓かれました。内容はⅠ座談会「女学生とジェンダー1934-1944」、Ⅱ1930年代後半~40年代前半の女性―性、Ⅲモダン都市の女子高等教育機関、Ⅳジェンダーモダニズム・生活、Ⅴ教養としての古典、Ⅵ表象としての女性、Ⅶ資料編という構成になっており、Ⅲでは著名な女子大の歴史、Ⅵでは今井邦子や与謝野晶子など時代の旗手となった女性8名の略伝が取り上げられています。

全体に女学生の近代史と、近代源氏物語享受史とが2本の柱となっているように感じます。近代日本の始発から大戦の時代への女子教育を振り返ると共に、政治に利用されていく古典教育の軌跡をたどることができます。女子大卒でない、戦争を体験していない編者たちの発言にときどき違和感を感じ、過去についての新たな物語が創出されていく過程を危ぶむ気もないわけではありませんが、有益な企画であることは間違いない。

亡母は東京女子大の英文を1933年に出ました。我が家には秘めた安井てつ伝説があり、信念の教育者として尊敬されています。