もう一つの道

先日ブログに書いた「卒論指導」を読んで、日本史をやっている友人から、メールが来ました。以下に引用します。

【「卒論指導」の記事を拝読し、私も昔のことを思い出しました。卒論は、農業史をやろうと思っていたのですが、指導教授から「ん~、史料がね」といわれ、断念しました。まとまった史料はないのですが、時間をかけて捜せば、ちょっとずつ出てくる分野なので、その後、この方面の研究が進んできたことを眺めると、あそこで頑張っていれば、という悔いが蘇ります。確かに、卒論という場では無理だったと思いますが。

後に、いい年になってから、もし卒論が農業史だったら、その後の研究生活は、面倒な概念や、やっかいな学説史に、いまほど振り回されることなく、のびのびやれていたのではないか、でも、農業史だと就職が難しかったかもしれない、など、あれこれ思ったことがあります。未練があったのと、研究史の整理が嫌いだったからですが。「私の一冊」はいまでも、岩波新書中尾佐助『栽培植物と農耕の起源』です。】(錦織勤)

勤務先が教育学部から地域科学部に改編されたとき、嬉々として地域の治水史(千代川の灌漑に関して)の講義ノートを作っていたので、えらいなあ(外的理由で研究動機を起動できるなんて)、と思ったのですが、もともとやりたかったことだったんですね。

中尾佐助の著書は、私も若い頃愛読しました(たしか選書判の本と新書『花と木の文化史』だったと思いますが、親の蔵書と一緒に処分してしまいました)。高校生の頃は植物学をやりたくて、父に進学先の相談をしたら、これからの植物学は化学だろう(今ふうに言えばバイオです)と言われ、化学は嫌いだったので断念しました。私がやりたかったのは生態学や分布学だったので、いま見れば、中尾佐助著作集の目次そのものです。

立ち読み

歯医者へ定期の口腔ケアに出かけました。口の辛い歯科衛生士から、右下奥の1本を除けばよく磨けている、歯茎もきれいになった、と褒められました(ここまでに4年半かかった)。支払いの段階になって、高額請求に一瞬耳を疑いました(後期高齢者保険なので3割負担になったのです)。両者に因果関係はないと信じていますが・・・

近くの本屋へ寄って、クリスマスカードと来年の手帳と、暦を買いました。世界遺産の富士山(山麓に我が家の墓がある)の暦は入手できましたが、肝心の机の脇に掛ける暦(仕事の日程管理用)が見つかりません。絵柄は犬と猫と占いばっかり。例年、海か、雲か、花の写真つきを買うのですが諦め、本を物色して文芸、社会、歴史などのコーナーで立ち読みしました。

片岡義男のエッセイを探したのですが、なし。自然科学や死生学・老年学の本に眼が止まりましたが、当分読む時間はなさそうなので断念。「作家と共に楽しむ古典」なるキャッチフレーズに惹かれて立ち読みした本には仰天し、青ざめました。書店とタイアップした販売会で、作家が群衆を前に、平家物語は琵琶法師の語りが本来で、眼で読むようになったのは徳川幕府以降、などと言っている。なんて莫迦なことを、と思わず呟いてしまいました。

日の暮れるのが早くなり、外はもう真っ暗でした。嗚呼、老後の平安は遠い、と、とぼとぼ帰りました。

スポーツの勝敗

小結貴景勝の優勝は、上位陣の休場や突っ張りだけが持ち技、という限定条件を差し引いても嬉しいことです。何故なら、師匠の突然の引退、部屋替えという衝撃を真正面から突破しての優勝だから。かの親方の言動は、スター横綱のイメージを損ね、相撲というスポーツの品格(この語はあまり使いたくないのですが)をも低下させるものでした。しかし貴景勝にとって、親方は親方です。若い弟子が正攻法で、親方の教育の成果を見せつけたのですから、これ以上の恩返しはありません。親方にとっても、最高の見送りになったはずです。

今後は突っ張り、押しだけでなく、四つ相撲でも強くなって貰いたい。相撲の醍醐味はやはり、がっぷり組んでの闘いにあります。若い頃、ストレスの多い仕事に愚痴をこぼす私に向かって、父はよく、相撲と違っておまえらの世界は勝ち負けがはっきり見えないから気の毒だなあ、と言い、私は複雑な気持ちで聞いていました。

フィギュアスケートの競技会のTV中継を、よく視ます。綺麗で感動するからだけでなく、選手の精神的な闘いが、身につまされるからです。その意味で、羽生結弦は何と言ってもすごい。本番でいちばんいい演技ができるためには、どれだけの余裕を確保し、また自らの恐怖を抑え込んでいるか、叶わないなあ、と思ってしまいます。何千時間の練習がたった3~4分の演技に凝縮され、しかも、他人の目で見て美しくなければいけないという評価基準に自らを持って行って合わせる、というスポーツです。

それに引き替え、私たちの仕事の難しさは、勝敗がいつつくのか、つくのかどうかも分からない―ところにある。父にそう言い返せなかったことが、今も心残りです。

菊見酒

このところ月の美しい晩が続きます。我が家では小菊が咲き始めました。あちこちから小枝を失敬してきて、挿し木で増やしたのですが、数年のうちに新種から消えてゆき、けっきょく残ったのは、シンプルな白と黄色の小菊でした。これが一番、菊らしい、と満足しています。夏前にちゃんと摘心もしたのですが、縦横に伸び、ベランダの障壁一杯に壁画を描いたように咲き乱れています。日が当たると黄金色に輝き、ひとときの幸福感を演出してくれます。

学部を卒業するとき、クラス担任は故関根慶子先生で、ちょうど附属高校の校長をしておられました。みんなで相談して、卒業記念には毎週1回、校長室へ生花をお届けしようということになり、先生のお好みを伺いに行ったところ、花は何でも好きですが黄色い菊だけは駄目、と仰言り、私も同感だなあと思って、花屋にはそう注文しました。でもこうして、晩秋の陽光に輝く小菊を見ると、先生、黄色い小菊もいいですよ、と言いたくなるのです。

ポットマムとか電照菊とか呼ばれる、丈が低くびっしり花のつく品種がありますが、あれは好きになれません。人工的過ぎるからです。都会の、デザインされた公園花壇には向いているのかも知れませんが。名古屋を離任するとき、矢作川を渡って六郷川の向こうへ帰るんだ、と思いながら車窓を見つめましたが、電照菊を育てる白いビニールハウスが延々と続き、感傷は萎みました。

月と菊が美しい夜―これはどうしても熱燗の日本酒ですね。もう、毎晩嗜む能力はありませんが。

ハンパク

1969年夏、大阪城公園では、ハンパク(反戦のための万国博)が開催されていました。翌年開かれる予定の大阪万国博は、ちょうど70年安保(日米安保条約の更新)と重なり、その問題点から国民の眼を逸らす目的がある、とされ、なら反戦の意志を示す民衆手作りの博覧会をやろうじゃないか、という趣旨だったと思います。小田実、山田宗睦、鶴見俊輔らが参加し、未だ元気だった全共闘も一翼を担っていました。

当時、私は修士課程2年目、大学は封鎖されて授業もなく、仕方がないので全国の長門本平家物語の悉皆調査を始めていました。夜行列車で地方の図書館や大学へ行き、書誌学の知識は殆どないのに、とにかく長門本の写本を見て、寸法を測って、本文の状況を見る、という作業です。撮影や複写は誰にでも出来ることでは無かったので、国書刊行会翻刻本やノートをぎっしり詰めたボストンバッグを提げて、全国を歩きました。

勿論、観光の余裕はありません。大阪へは早朝に着き、図書館が開くまでの時間を利用してハンパクを見に行きました。朝早くだったので、大抵のテントは未だ起き出していない感じで、何を見たかも殆ど記憶に残っていません。帰路、暑くなってきた日差しの下、重そうな鞄を引きずるように歩いていた私に、若者が1人、声をかけ、鞄を持ってくれました。道々、あれこれ話をしている内に、ハンパク警戒のために派遣された機動隊員の勤務明けだと分かりました。私が反戦主義者らしいと知ると、彼がずいと身を引くのが分かりましたが、それでも駅までは鞄を持ってくれ、互いに挨拶をして別れました。梅田駅でホームに置いた鞄が小さく見え、こんな物も自分で持てなかったのか、と情けなく思ったことを覚えています。

2020年東京五輪、2025年大阪万博、これから老いの坂を下りてゆく数年間、にぎにぎしい日々が続くのだなあ、と、ふと溜息が出ます。

天皇陵

24年も前の、暑い夏の日のこと。八坂系平家物語に関する共同研究で、私は村上學さんと共に、天理図書館へ書誌調査に行っていました。この時季、天理図書館の閲覧は午前中だけだったので、午後からの時間が空き、三輪山の麓を歩いてみたい、と言う村上さんのお供をして、玄賓僧都の庵の跡や、いくつかの天皇陵を回りました。

ある陵の前まで来ると、なぜか水桶と柄杓と、小さな盥(すべて白木造りです)が用意してあり、盥には真新しい杉の葉が敷いてありました。何だろう?2人とも一瞬、記念に杉の葉を持ち帰ろうかな、という気がうごきましたが、事務所まで行って訊いてみると、宮内庁の担当課長が今年の異動で交替したので、今日これから参拝に来るのだという。あやうく失敬するところでしたが(後年、私は最後の職場になった大学の着任式で、このセットを使った手水の儀式を体験しました)、今でも人事異動の度に、こういう儀式が行われていることを知りました。

天皇陵に学術調査が入ることは、望ましいことです。中には、後世の粉飾や伝説が実体でしかなかった、と判明することもあるかもしれません。しかし、新しい学問的発見も多々あるでしょう。興味本位ではなく静かに、始まって欲しいと思います。

あの時、私が村上さんのお供をしたのは、曽我物語諸本を次々に混態本と判定された村上さんの仕事の速さを警戒して、平家物語諸本は事情が違う、と言える人間が従いて行った方がいい、という仲間たちの判断によるものでした。いま、平家物語の諸本発生もまた、混態現象によるところが大きいと判ってきて、その成立事情を説き明かす仕事が求められています。

 

英雄叙事詩

福田晃・荻原真子共編『英雄叙事詩アイヌ・日本からユーラシアへ』(三弥井書店)という本が出ました。福田さんのバイタリティには、数々の伝説があります。86歳の今日もこうして、世界的な視野で伝承文芸の集大成に成果を挙げ、多様な人々を結びつけておられることは素晴らしいと思います。

本書は序章に、編者2人による概説「詠うことばの世界―アイヌからユーラシアへ」と「日本の語り物文芸―英雄叙事詩をめぐって」を掲げました。第Ⅱ章では福田さんが我が国の語り物文芸の代表とする「百合若大臣」「甲賀三郎」について述べた後、韓国・中国・テュルクにおける類話が紹介されています。福田さんによれば、この2話はいずれも狩猟民族に伝わり、鷹飼い・馬飼いの文化に支えられてきたもので、日本を稲作文化の面からばかり見る視点の偏りを、指摘しています。

第Ⅲ章には、韓国、中国、モンゴル、チベット、中央ユーラシア、東シベリアなどの各地に伝わる勇者・英雄たちの物語が紹介されています。ユーラシア大陸には、こんなにも英雄叙事詩がいろいろあり、しかも互いに共通する要素が少なからずあるのだという事実に驚かされます。ただ多くの人にとって、頻出する片仮名の名前が、民族名なのか国名なのか(王朝名か、地域名かも)、あるいは言語系のグループ名なのかは、分かりません。巻頭の地図を見ても説明がない。どこかにその説明と、簡単な年代誌(現在の国名、地域名も)を出しておいて欲しかったと思いました。