過少申告

数字が大きすぎてぴんとこない、自動車会社トップの不正。最近は、CEOと社長と会長と代表権のある何とやら・・・と、誰に最高責任があるのか、外部からはよく分からない組織が多くなりました。私に違和感があるのは、あの会社の社長がしゃらっと、記者会見で、会長(未だ解任されていない)の不正行為を指摘したり、中には笑みを浮かべながらTVカメラに向かって説明する日本人役員もいること。会社の公式サイトも見ましたが、まるで他人事のような説明です。

役員報酬が多すぎるかどうか、どういう基準であれだけの高額が決まったのかはまた別の問題。さしあたってのポイントは、かの会社の有価証券報告書が5年に亘って虚偽のものであったこと、役員が不正に会社の金を支出させていたこと、そしてそれらを他の役員たちが黙認していたこと(金庫から手づかみで給与を持ち出すわけじゃあるまいし、取締役会で決めた役員報酬額と報告書記載額とは、複数の人が知っていたはず)でしょう。つまり株主と社員たちを騙し、金銭的な公私混同が、全社的に行われ続けたことになります。

ならば現在の社長も役員たちも、沈痛な面持ちで報道の前に現れるのが、まっとうではないでしょうか。株主にどんな顔向けをするのか、人員整理した元社員たちに、現在の役員報酬を含めた「コスト」をどう説明するのか。

思うに2003年、負債が解消された時点で、辣腕の経営者は、己れの退き際をどこにするか、イメージすべきでした。周囲の役員たちに、そういう環境を作っていく覚悟を持つ人がいなかったことが、気の毒といえば気の毒です。

なお新聞の解説によれば、所得税過少申告の時効は7年なんだそうで、日本国の税はきちんと追徴つきで、元会長から徴収できるらしい。財務諸表にはどう記載し、法人税はどうなっていたのかなあ。

平和の世は来るか

軍記物語講座第三巻『平和の世は来るか―太平記』 松尾葦江編   

                2019/10/30発売(花鳥社)

まえがき                        小秋元段 

忠義の行方―楠の刀                   井上泰至

太平記』諸本研究の軌跡と課題

 -1990年代以降を中心にー             長坂成行

太平記』と武家天正本と佐々木京極家の関係を中心に- 和田琢磨

 『太平記』における禅的要素・序説            小秋元段

太平記』の禅学、宋学―遺偈と『孟子』と殷周説話とー  森田貴之

太平記』の表現―方法としての和漢混肴文―       北村昌幸 

南朝歌壇と『太平記』―『新葉和歌集』を中心に―     君嶋亜紀

太平記』の周辺―連歌師と『太平記』―         伊藤伸江

言語資料としての『太平記』-神田本の語法-       吉田永弘

壒嚢抄の『太平記』利用                  小助川元太

太平記』と兵法書―「七書」の受容をめぐって―     山田尚子 

『理尽抄』『難太平記』から見た「青野原合戦」

 -『太平記』注釈書としての『理尽抄』の可能性-    今井正之助

近世演劇と『太平記』-『仮名手本忠臣蔵』成立まで-   黒石陽子

南北朝内乱と『太平記』史観-王権論の視点からー     呉座勇一

太平記』流布本・西源院本・天正本記事対照表      李章姫 

あとがき                        松尾葦江

 *花鳥社の公式サイトに本書の企画会議、『太平記』の絵画資料や伝本書誌に関する 

  コラムが掲載されています。目次の詳細、執筆者紹介も見ることができます。

    https://kachosha.com/

 *お問い合わせは花鳥社(電話 03-6303-2505)まで。

 

空飛ぶ酔漢

航空機パイロットの酒酔い乗務が、問題になっています。怖い話です。落ちる側だけでなく、落ちてこられる側からすれば避けようがなく、予測もできないのですから。

一昔前、未だ酔っ払い運転の取り締まりがそれほど厳しくなかった頃は、ちょっと引っかけた方が車は巧く運転できるんだ、なんて豪語する人もいましたが、さすがに今は通用しません。まして計器の多い、危険も大きい航空機のパイロットが、どうしてそんなに酒好きなんだ、と不思議に思ったのですが、時差の調整のため寝酒を飲む人が多い、という説明に、なるほど、と思いました。

しかしそれなら、乗務前の検査を厳しくするだけでなく、総合的に勤務時間と健康の管理が必要なのではないでしょうか。酒に頼らずに睡眠を確保できる環境を整える義務が、会社にもあるのでは。尤も報道で問題になった例は、時差惚け解消のための寝酒、というには深酒が過ぎるものばかりのようです。

職業によって、諦めねばならない悦楽は必ずと言っていいほど、あるものです。それがまた職業人の誇りにもなる。裁判官が、ツイッターで何でも言い散らかす行為は、言論の自由とは呼べないと思います。どうしても節酒できないパイロットは、研修期間中に酒アレルギー体質にさせるしかない、そんなことにはなりませんように。

太平記シンポ余談

昨日の太平記シンポジウムは計4本の発表があり、最後の発表者伊藤慎吾さんは「妖怪資料としての『太平記』受容―「広有射怪鳥事」を中心に―」と題して、巻12で建武元年改元記事に伴って、紫宸殿の上で「いつまでいつまで」と鳴く怪鳥を隠岐広有が射落とす記事があるのを取り上げ、安永8年には鳥山石燕が「以津真天」と命名し、現代になると、放置された餓死者の死体を食い荒らし、「いつまでいつまで」と鳴く怪鳥として記述されることを指摘しました。

発表はさらにライトノベル、アニメ、ゲームにまで及んだのですが、私としては、太平記では時勢批判と予言の役を担った怪鳥が、どうして現代では餓死者の遺体放置を詰問するようになるのかが、気になりました。フロアからの発言で、どうやら最初の記述は水木しげるらしいと分かったので、南方戦線の体験と関係があるのでは、と思ったのですが、質疑応答が噛み合わないうちに、私の方は辞去すべき時間が来てしまったので、帰宅してから伊藤さんにメールしたところ、以下のような返信がありました。

「その後、ご質問の意図に気づいたので、他の質問への回答にこと寄せて、水木が病死者を餓死者に改変した作為の背景には、南方での壮絶な戦争体験があっただろうと答えました。 『日本妖怪大全』の解説がその体験談から始まるのは、水木にとって、改変型「以津真天」と直接結び付いているからでしょう。水木は晩年まで、戦争体験をエッセイでしばしば取り上げていました。 その体験は、同時に妖怪創作にも反映されていることが窺われます。 これはもう少し掘り下げてみる価値のあることだと思います。」

シンポでは、井上泰至さんの後醍醐天皇楠木正成像の変容についての発表もあり、さらに今日も続き、討論も行われたはずで、やがて成果が活字となって世に出る予定です。

 

太平記シンポジウム

京都の日文研で開催された、太平記シンポジウムを傍聴しに行きました。急いで出たので、ガラケーと腕時計を忘れたのに気づきましたが、引き返す時間がなく、不安でいっぱいのまま、深川めしの駅弁(東京駅発の朝食は、これに決めているのです)を買って乗車しました。半径700mの生活が続くと、呆けるなあ、と反省。

藤沢あたりから、大山と富士山が綺麗に見えました。今年は富士山の雪が少ないようです。浜松の養鰻池跡は殆どが太陽光発電パネルで覆われていました。京都駅で下車してトイレに入り、吃驚。空室には◯の看板、ドアを閉めると✕の看板が出るようになっていたのです。どんなサインよりも分かりやすいけど、幼稚園に来たみたいです。

桂川駅には西日本最大というスーパーがあり、ここで¥1500の懐中時計とサンドイッチ(京都はパンが美味しい)を買いました。タクシーに乗り、京都郊外の激変(この辺は一面竹藪だった)の話を聞きながら、日文研へ。初めて来たのですが、中庭を廻って迷路のような建物で、けっこう広いらしい。

シンポジウムには40人くらいの参加者があり、盛会でした。和田琢磨さんの「『太平記』と武家南北朝室町時代を中心に-」は鈴木登美恵・長坂成行両氏の諸本論を中心におさらいして、天正本・永和本の評価を試み、聞き応えのあるものでした。聞きやすく、時間配分も柔軟で、感心しました。

この共同研究は歴史学と国文学の相互乗り入れの必要性を謳っており、その趣旨にはまったく同感なのですが、やはり根本的なところで「史実」「記録性」「なぜ伝え残されたか」等々の立脚点に相違があり、今後の議論を通じて、お互いに少しでもそのことに気づけるといいな、と思いました。

真っ直ぐ行って、真っ直ぐ帰ってきたロケット旅行でしたが、上り列車に乗る前に、日の菜漬を買うことだけは出来ました、車中で呑む京都麦酒も。

 

卒論指導

松薗斉さんが自著のあとがきで、学部時代の卒論の思い出を書いているのがほほえましく、ちょっぴり苦く(似たような覚えが誰にもあるはず)もあります。指導教授の川添昭二先生に、早歌(宴曲)研究をしたいと申し出たが、微笑まれるばかりで何も返事されず、それは否という意味だったので、『看聞日記』に替え、着手したものの事前発表はかんばしくなく、いまも封印したい思い出だとのこと。

かつて指導教授は、応否をはっきりは言わないのがふつうでした(私の周囲ではそういう例が圧倒的)。私の場合、学部の指導教授は専門が異なる井本農一先生で、卒論を提出するまで、私の名前を正確には覚えておられませんでした。いちいち訂正するのも何なので、誤った苗字で呼ばれてもお返事し、研究室の助手が変な顔をしていました(いつの間に結婚したの?)。

大学院の恩師は市古貞次先生でしたが、ご自分の思い出話に「藤村作先生は、何度お宅へお邪魔して論文の構想をお話ししても、膝の上の猫を撫でながら、はあ、はあと言っておられるばかりだった」と仰言るので、こちらもそれ以上はお願いできませんでした。修論提出時は大学紛争続きで殆ど授業もなく、何をどうすればいいのか見当もつかず、2回目の留年の相談をしに行ったら、それは駄目だと言われ、最後の1週間は寝床に入らず、書き上げました。口頭試問の時に、ああいう研究もあるよ、と仰言ったので、否定的評価に対して弁護して下さったのだな、と推量しました。

自分が論文指導をする側になった時、卒論段階では本人の個性や進路に合わせて、誤った方向へ逸れないようにするだけ。修士段階ではふわっと、本人の研究テーマを見失わないようにするだけ。けっきょく何も言わない指導が、最高の指導なのかもしれません。

佳日

よく晴れた穏やかな日、朝の家事を済ませて腰を下ろし、珈琲を淹れる頃、宅配便がやってきて、仕事仲間からの献本を届けてくれる。期待に満ちて包装を解き、紙の匂い立つ新本を開いて、まず目次、まえがき、あとがきを読み、再び目次に戻ってきて、どういう本なのか、どこから読もうかと考えを廻らせます。至福の時です。

老後、誰にでもこういう平和な時間がしばらくあってもいいのではないか、いやそれを保証するのが政治や社会制度ではないか・・・体力の続く限り働け、それが人間の幸せだろう、と言わんばかりの「すべての人が輝く」云々の宣伝には、警戒したいと思っています。ちょっと身を引いて、自由になって見えるもの、できることがある、それが誰にでも順番にやってくる役割なのだと。

しかしたまには、必要があって取り寄せた本が期待外れ、いや憤慨を誘うこともあって、平和はたちまち破れます。現役時代に何をしてこなかったのがいけなかったか、今から何ができるか、という考えが浮かんで来るのを、なるべく風船を手放すように宙へ逃がすことに努め、コーヒーカップに手を伸ばすのです。

陽の当たるベランダでは黄菊の蕾が開き始め、郭公薊の花房の冴えた紫色に、小さな蜂が引き寄せられて羽音を立てています。ゴールズワージーの『小春日和』は、高齢の主人公が、金鳳花の花むらに寄ってくる蜜蜂の羽音を聞きながらまどろむ場面で終わります。当時高校生だった私は、英語教師が、これは蜂の羽音ではなく耳鳴りだ、主人公には死が近づいて来ているのだと説明するのが、信じられない思いでした。残り時間で何をするか、それはどのくらいの余裕があるのか、当人にはわからないところが人生の妙、というべきでしょうか。