年齢確認ボタン

コンビニで酒・煙草類を買う時に、年齢確認ボタンを押せ、と言われるのには、慣れるまでちょっと抵抗がありました。未だに慣れない中高年もあるらしく、アルバイト先のレジで怒鳴られた、おじさん、誰も貴方を偉いとは思ってないよ、と皮肉る若者の投書が、今朝の新聞に載っていました。

一読して、いやみ交じりの文章に、君の方がよっぽどエラソウな口利いてるよ、と言いたくなりました。もしレジにいるのがロボットだったら、その「おじさん」も黙ってボタンを押したでしょう。一目見て50代だと分かる人間に、生身の人間が「店のルール」を機械的に要求すれば、むっとする(人間なら虫の居所が悪いときもある)のは分からなくもない。そういうときは、カウンターの内側で苦笑いすればいいのです。見ず知らずの相手を、「若者に文句を言うのはこの世代」とか「自分は偉いと勘違い」などと、勝手に拡大解釈して、「社会の公器」で誹謗するのはどうかな。

私がいつも行くコンビニのレジは、さっさと確認ボタンをセンサーでクリアしてくれる店もあり、お手数ですが、というニュアンスを付け加える店もあります。そもそも、現在の年齢確認ボタンは、店側の都合で「お願いする」筋合いのものです。自己申請なので、ほんとに制度として有効なのかなあ、という疑問も湧きます。コンビニで年齢を申告するのは客の義務、と勘違いしたりしないで下さいね。

台風一過

「大型で強い台風」と、ニュースのアナウンサーが繰り返すので、一応ベランダを片づけました。今まではたいてい、台風の日も朝まで熟睡したのですが、夜中の1時過ぎに眼が覚め、風の音のものすごさ、閉めきっているのに風圧を感じました。階上からも、ごとごと何かがぶつかる音が聞こえます。起き出して南向きの居間を見に行くと、床に見慣れぬ物が転がっていました。何だろう?拾って見回すと、通風口の室内の蓋が吹き飛ばされていたのです。いまベランダを見ても戸を開けられないので、とりあえず蓋をはめて朝を待つことにしましたが、寝付かれません。3時になった途端、風が遠のくのが分かりました。

こんな体験は何十年ぶりでしょうか。木造家屋だったら怖かったと思います。朝になってみると、居間には通風口から吹き込んだごみや煤が散らかり、ベランダでは梔子の大鉢4つと石榴の鉢が転がり、鶏頭を押しつぶしています。パジャマのまま、まずは鉢を起こし、居間に掃除機をかけました。最大瞬間風速は40mだったらしい。心配した硝子は割れておらず、雨漏りもありませんでした。

霞が関方向からヘリコプターが、ぶんぶん各地へ飛んでいきます。地震や、この前の台風、豪雨に遭った広島、関西、北海道はたいへんだと思います。未だ在来線の殆どが復旧していないので、新幹線で通勤している、と先月末に広島からメールが来たばかりでした。

昨夜、台風情報のさなかに飛び込んできた臨時ニュース―沖縄知事選の結果には、思わず、それみろ、と呟きました。沖縄県人の意志ははっきりしている。今度は私たちが、出された宿題をどう解くか、です。

ストロー

ストローがプラスチック製になったのは、ついこないだのような気がするのですが、いつ頃からだったでしょうか。洗って2度使うわけじゃないだろうに、どうして?と思った覚えがあります。それ以前は紙製で、撥水性のコーティングがしてありました。さらにその前は、麦藁だったのです。

子供の頃、飲み物にストローが添えられているのは贅沢だったので、麦藁が紙製に変わったのがいつ頃だったか、記憶がありません。湘南の家から東京の街中へ、ちょうど子供から乙女へ変わる頃、だったかも知れません。麦藁でもストローが添えられているのは、夏の季節、ちょっとおしゃれな飲み物の場合で、高校生までは喫茶店への出入りは禁止されていましたから、よそのお家へ招かれた時ぐらいでした。我が家のおやつのカルピスはどうだったかなあ、と考えてみても、ストローはなかったようです。

麦藁のストローは、内部に黴が生えたり、縦に裂け目が入ったりするので、紙製の方がたしかに便利でした。プラスチック製にする必然性はない気がしていましたが、口元に向けて折れ曲がるものが出て来たときは、なるほどと思いました。

いま世界的に、プラスチックごみの原因の筆頭としてストローが挙げられていますが、紙や木材からプラスチックへ、と多くの物が変化してきた理由は、何だったのでしょうか。そもそもストローは、常に必需品なのか、というところから考え直してみたい気がします。コンビニで、割箸やスプーンは要らない、と断っても、帰宅してみると袋の中に入っていることがあります。店員が無意識に入れてしまうらしい。

都知事が呼びかけるほどの大ごとなのかしら。当たり前だと無意識化している付属品や習慣の必要性を、各自が点検して、地球を長持ちさせたい。そう思いませんか。

シニア女子会

高校時代の同期会の女子会に出ました。卒業したのはいちおう男女共学の都立高校ですが、もと女子校のナンバースクールだったので、当時の生徒数は女子2男子1、成績は圧倒的に女高男低(その後帰国子女受け入れに特化したり、進学先の浮き沈みがあったりして、今ではすっかり様変わりしています)。同窓会や同期会とは別に同期の女子会を起ち上げた人がいて、もう30年近く、秋桜の咲く時季に昼食会が開かれるのです。私は定年近くなってから参加するようになりました。

西銀座から銀座8丁目まで、冷たい雨の中を歩きましたが、大通りはすっかり外国のブランド店に占領された感じでした。会場は日本料理の席で、参加は18名。賑やかに始まりました。10年前までは、趣味仲間と世界を飛び回っているとか、孫の世話で忙しいとかいうスピーチが多かったのですが、今日は、後期高齢者目前で体調を崩したとか、断捨離がなかなか進まないとか、濡れ落ち葉のような夫が重い(この話題はかなり盛り上がっていました)とか、高齢者住宅に入ったとかいうスピーチが続きました。

後期高齢者目前で、夫はよぼよぼになり・・・と切り出すので黙って聞いていると、ゴルフやエアロビクスに殆ど毎日出歩いている、という話だったり、十数年別居していた夫と久々に同居したが、互いに自由にやってます、という話だったり、油断できない話題の続出でした。

料理の最後は、榛の実と豆の炊き込み御飯で締めくくられました。ランチョンマットには、「能登かけて銀河おちゆく風の盆」という俳句が、印刷されていました。

菊日和

先週までは、空気の中に木犀の香りがするのは気のせいかな、という程度でしたが、もうたっぷりと、濃密な香りを楽しむことができるようになりました。至福の季節です。東京の街は春は桜、秋は木犀が、思いがけない所から歓迎のメッセージをよこしてくれる。金木犀の時季が過ぎると、銀木犀、柊木犀が白い花を咲かせます。金木犀を砂糖漬にして、料理や菓子の飾りにしたいと思うのですが、落ちた花を掃き集めるわけにもいきません。

先週は学会会場の校庭でも、大きな屋敷の門前でも彼岸花が盛りでした。今や彼岸花も園芸用の花になり、縁起がわるいというイメージはなくなったのだな、と感心しました。以前は土手を歩くと、彼岸花の首が鎌で切り落とされたように点々と落ちていることがよくありました。却って不気味だし、せっかく咲いた花が可哀想でもあるので、拾ってきて灰皿や大皿に浮かべると、モダンな感じの卓上花になりました。

我が家ではランタナが、今頃元気に咲き始めています。夏の花なのに今年は暑すぎたのでしょう。郭公薊はどんどん分蘖して、1茎に1輪ずつ薄紫の花をつけ、イギリス式庭園ならハーブに混ぜて観賞するのにいいのですが、やむなく吊り鉢にしました。鶏頭は、夕方遅く急いで買ったら勢いのない苗をつかまされ、花屋を恨んでもしょうがないので、思いきって切り戻ししたところ、濃い牡丹色の花房が頭をもたげてきました。こうなると嬉しく、いとおしくなります。ぼつぼつ小菊の蕾が見え始め、咲くな、とほっとして、溜まった洗濯物を一気に干しました。

さよならの代わりに

久しぶりに山口百恵の歌う「さよならの向こう側」を聞いて、感動しました。発売当時は、彼女の引退公演用に作られた曲というイメージが強く、百恵引退という社会現象の方が印象に残ったし、三浦祐太朗が歌った時も、親子ってそっくりだなあという感想が先に立って、歌そのもののよさを知るのに今までかかってしまった、というところです。丁寧に、しずかに、遠くへ視線を投げながら歌う百恵は、あの時どこまでを見ていたのでしょうか。歌曲が、作品として独立し、それを歌う歌手として自分が視られるようになる日が来ることを、考えていたのかどうか―作品とその伝え手との関係を、改めて思いました(個別性と一般性、実名性と無名性との関係は、歴史文学の重要な課題でもあります)。

こんなことを考えたのは、樹木希林の終末を追うドキュメンタリーを視たばかりだったからかもしれません。最期まで人と組んだ仕事の出来ばえを気にすること、死や別れに向かって準備するということ、自分にもそういう時機が近づいていると思わなければ、と反省したからです。あの女優は個性的で、重たすぎる部分と軽快でコミックな部分とを持った大人でした。本人は気づいていないが、ふと杉村春子を髣髴とさせる瞬間もありました。もう少し軽くなるまで、生きていて欲しかった気もします。

葬儀の際の写真を用意しておくとか、棺の担ぎ手を指名しておくとか、仲間うちでは冗談交じりにそんな話も出るようになりましたが、BGMにこの曲を指定しておいてもいいなあ、と思ったりしました。受付でこの曲を、待合室ではギターソロを、出棺にはラヴェルパヴァーヌを。

和田珈琲

丸の内に用があって出かけました。新丸ビルの入り口では、ロボットが案内をしていました。用を済ませ、中世文学会へ行くための特急券を買おうとみどりの窓口に並び、ふと見ると、隣のびゅうぷらざには、イスラム教徒の礼拝室が設けてありました。

午時になってしまったので、3ヶ月前に入ったタイ料理店を探したら、韓国料理店に変わっていました。競争の激しさを見せつけられた気がします。

仕方なく、和食の「スープかけ御飯」という看板の出ているカウンターの椅子にやっとよじ登り、チキンと玄米と野菜スープの組み合わせを注文してみました。ヘルシーな感じですが、うす甘い御飯に焼鳥や野菜サラダが載っているだけ、美味しいというほどのものではない。スープがいまいちです。異国の屋台か何かで、立ち食いする程度の食事でしょう。しかし、隣席の若い女性は、ベーコンの載った御飯にスープをかけて、スマホ片手に平らげていました。今どきの丸の内のOLたちは、海外出張でこういうものを食べて来て、帰国後もそれで昼餉を済ませ、ばりばり働いているのかなあ、と想像しました。

帰宅する前に口直しをしたくて、店主が珈琲の蘊蓄を語ることで有名な和田珈琲店に寄り、コロンビアを注文しました。女将が話しかけたそうなので、建設の進んでいる隠居所のことを訊いてみました。12月27日に、2代82年続いたこの店を閉め、娘さんが山梨県北杜市で、同じ名前の喫茶店を開くそうです。珈琲豆は届けてやるが店の手伝いはしない、自分たちはここ地元で隠居する、という話でした。