窓をあける

『文学研究の窓をあける―物語・説話・軍記・和歌』(石井正己・錦仁編 笠間書院)が出ました。2016年12月の講演会と、翌1月のシンポジウムを中心に本にしたものです。内容は第1部講演録、第2部海外から見る日本文学、第3部緊急共同討議「文学研究に未来はあるか」の構成になっており、1部と3部は石井正己・小峰和明・松尾葦江・錦仁の4名が中心、2部は韓国の金容儀さんと李市埈さん、それに加えて米国在住のセリンジャー・ワイジャンティさんの論文が載っています。1部2部の論題は本ブログ2017年1月14日付の「お知らせ」に載せておきました。

3部では、「今、古典文学を研究すること、教育すること」についても話し合われています。主催会場が東京学芸大学という、国語教育の専門家育成の場でもありましたので、本書の企画の最初から、そういう問題意識がありました。東北大地震や近年の文部政策にも話題が及び、文学は何をするのか、というテーマが潜在しています。

私はここでは、文系の大学院生・若手研究者、そして教科教育の専門家や国語教師を目指す人たちに向けて話しかけた心算です。主宰者の当初の依頼からそう考えたので、2つの講演題は「古態論のさきにはー平家物語研究をひらくⅡ―」と、「平家物語研究をめぐる4つの最新課題」としました。当日の会場では、4講師の意図が必ずしも一致してはいませんでしたが、編者の石井さんが巧みにまとめて、本書は一般読者にも面白い話が含まれ、文学教育や海外研究に関心のある人にも、読み応えのあるものになりました。

全278p、定価¥2300+税。お問い合わせは笠間書院(電話03-3295-1331)まで。

源平の人々に出会う旅 第19回「加賀・篠原合戦」

 寿永2年(1183)5月に倶梨伽羅峠で惨敗した平家軍は、加賀国へ退きますが、源氏に追撃され、篠原で激戦となります。

【多太神社(小松市)】
 平家方の斎藤別当実盛は、老武者と侮られまいと、白髪を墨で染めて戦場に臨みました。多太神社には義仲が奉納したという実盛の兜があり、松尾芭蕉が「むざんやな甲の下のきりぎりす」と詠んだことで有名です。覚一本『平家物語』には、倶梨伽羅合戦後、義仲が多田の八幡に蝶屋庄を寄進したとあります。

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【首洗い池(加賀市)】
 源氏方の手塚太郎光盛は、不審な敵を討ち取ったと義仲に報告します。樋口兼光の進言で首を水で洗わせると、墨が落ちて白髪が現れ、実盛の首と判明しました。八坂系の『平家物語』は、「なりあひの池」で洗ったとします。

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【宇佐八幡神社松任市)】
 諸本によって異同はありますが、義仲は白山に横江庄を寄進しています。横江町にある宇佐八幡神社は、義仲が富樫一族の横江七郎に造らせたとの由緒が伝わっています。

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安宅の関跡(小松市)】
 この付近は『義経記』の舞台でもあり、義経伝説が数多く存在します。特に有名なのが歌舞伎「勧進帳」の安宅の関でしょう(画像は左から義経・弁慶・富樫介)。もとになった能「安宅」は、前回に触れた「木曽」と共に、能楽の"三読物"の一つです。

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〈交通〉
多太神社・安宅の関跡:JR北陸本線小松駅、首洗い池(篠原古戦場):加賀温泉駅
宇佐八幡神社JR北陸本線野々市駅
                           (伊藤悦子)

水天門

赤間神宮の名誉宮司水野直房さんからお手紙が来ました。7月20日に国の文化審議会から、赤間神宮の水天門と回廊を国の登録有形文化財に指定する答申が、文科省に出されたとのことです。

壇ノ浦を望む丘の上に建つ水天門は、青空と安徳天皇陵を覆う森とを背景に、色鮮やかに印象に残ります。「波の底にも都の候ぞ」と慰められて入水した幼い天皇のために、竜宮城をイメージして造られた珍しい様式で、関門海峡の景観の一要素となっている点も評価されたことが、地元にとっては嬉しいようです。

下関は大規模な空襲に遭い、先々代の宮司水野久直さんが、1947年に大連から帰国して赴任した時には、簡素な神殿があるのみだったそうですが、地元の協力を得て58年に水天門を完成させたとのことで、当時、これだけの規模の計画を実現するのは並大抵の苦労ではなかったでしょう。吉報を報じる新聞記事には、当時のことを説明する名誉宮司の写真も載っていて、父君の戦中戦後の苦労が報われた喜びが見えるようでした。

創建130周年記念の年に『海王宮―壇之浦と平家物語』(三弥井書店 2005)の編集をお引き受けし、書名は「懐古詩歌帖」の詩の一節から採ったのですが、装幀は、水天門を思わせる青と朱で統一したい(川上澄生の版画にもそういう色合いのものがある)、と版元に言ってみましたが、奇抜すぎる、と受け入れられませんでした。

もう、なかなか下関までは出かけられなくなりましたが、名誉宮司のお手紙の宛名書きは相変わらず達筆で、お元気なんだなあと安心しました。水天門の写真は赤間神宮のHPで見ることができます。

ウェブ版うるし美術館

藤沢保子さんから「藤澤保子うるし美術館」というHPを起ち上げた、との手紙が来ました。藤沢さんは中学の同級生です。おかっぱで、赤いリボンを結んだセーラー服の似合う人(中学には制服はありませんでしたが)でした。中学卒業以来30年近く会ったことはなかったのですが、ある日、芸大図書館へ文献調査に行った帰りに上野公園を歩いていたら、後ろから名前を呼ばれました。それが藤沢さんでした。芸大を出て、漆工芸作家になったというのです。木地から蒔絵、象眼などの仕上げまで一貫して独りで作る、と言っていました。

それ以来、個展開催の度に案内状を頂き、何回か見に行きました。棗や手箱、ペン皿やスプーンなど、ゆるやかな曲線を活かしたデザインと、モダンで典雅な文様がすてきです。使われる色も、豪華さと清楚さがほどよく同居しています。

ウェブ美術館のURLはhttp://urushi.work 早速開けてみました。制作工程など、一部工事中のコーナーもあるようですが、3~6ヶ月に1度、更新する予定とのこと。作品一覧のコーナーでは、たっぷりした時間を優美な造形に閉じ込めた、漆工芸品のいろいろを楽しむことができます。

現場の日々

栃木県の高校教諭をしている、20年前の教え子がやって来ました。定年まであと4年になったとのこと。進学校に転任して11年目、サッカー部の指導その他、忙しく暮らしているらしい。いろんな話をしました。高校にも女性教諭が多くなったこと、アクティブラーニングの登場で国語教育がどう変わったか、大学入試改革の影響、部活と現代っ子気質の変化、知人の噂あれこれ・・・高校教育の現場に大学入試がいかに大きな影響力を持っているかを改めて認識し、またそれを言い訳に、ともすれば高校が時代に乗り遅れがちであることを、私なりに把握することができました。

日が落ちたので、麦酒でも呑もうかと街へ出ました。ベルギービールの看板を出している店へ入ってみましたが、客が少ないのをいいことに、店員がトランプ遊びを始めたので、グラス2杯で別の店へ移り、ワインを呑みながらまたあれこれお喋りしました。現場を大事にしながら自分の研究を続けて行くことは、なかなかの至難事です。しかし、たやすくないことを日々なし遂げるのもまた、人生の目的に値することでしょう。応援しているよ、と口の中で呟きながら呑む酒は、酔わないように見えて結構酔いが回りました。

交差点で別れて、帰る道は昼間の酷暑も和らぎ、花を閉じた松葉牡丹や木槿が、明日の太陽を迎え撃つための眠りに就いていました。

授業の作り方

古田尚行さんの『国語の授業の作り方』(文学通信)という本が出ました。古田さんは「国語科教員の部屋」というブログもお持ちで、30代半ばの中高一貫校教諭です。真面目な方で、国語教育の前衛たらんとする意欲が、この本にも満ちています。

本書は、1授業の前に、2授業中のこと、3授業の後に、4授業作りのヒント集、5授業作りで直面する根本問題、6授業の作り方・事例編、7教材研究のための文献ガイドという構成になっており、文学通信(株)の発足後2冊目の本でもあります。本作りの面からいうと、率直に言って、1~3章までを独立させ、『教育実習に行く前に読む本』と銘打って、事前指導ガイドとして売るべきだったのではないかと思います。4章と5章の一部をもとに『教採に受かったら読む本』というのを1冊、そして古田さんの経験に基づき、国語教員の仕事とは何かを論じる3番目の本の核に、5,6章が据えられる、というのが望ましい。

そして最後に挙げた(未刊の)本を話題に、国語教員同士の議論が盛んになるといいですね、ウェブ上ででも。現に、読書会をやりたいというツイッターもあるようです。

なお『ともに読む古典』(笠間書院 2017)のあとがきに書いた拙文を取り上げ、「文学は文学として読まれるべき」という発言を気にしていますが、果たして正しく読んで下さっているのかどうか疑問に思いました。他人の文言を批判するときは、何がどう問題なのかを指摘して、その「問題」の中身を批判すべきです。でないと議論になりません。古典教材を読む時に、教訓に要約したくない、と私はあとがきで述べました。文学は寸言に要約できない、善悪で分断できない、この世界の複雑怪奇さをまるごと抱え込むものだからです。文学とは何か、は教室で開陳せずとも、教師の中でそれぞれに成立しているはず、それがないまま教えるなら、ただの語列をなぞるに過ぎません。もしや古田さんは、「文学」とか「古典」とかいう語を使っただけで、無前提に「いいもの」とするのでしょうか。

昆虫学者の老後

新聞の「ひと」欄に30年前の同僚が紹介されていました。鳥取砂丘のハンミョウ保護活動のリーダーだそうです。私の鳥大赴任1年後に、生物学の助手(現在は「助教」という)で任用された青年でした。寡黙で、人付き合いは殆どないように見えましたが、理系の助手はそういうもんで、きっとほんものの学者になる人だと思っていました。

専門はザトウムシ(蜘蛛の仲間。脚が長くて座頭の杖のように見える)の研究。会議で見た業績書にはダニのような図が出ていたので、ずっと微細な虫(蜘蛛は、厳密には昆虫ではない)だと思っていましたが、調べてみると、そういえばアメンボが陸に上がったような、奇妙な虫を時々見かける、あれがザトウムシなのらしい。

旧同僚の1人とメールで噂話をしました。彼は30年間ずっとザトウムシ一筋で、付き合いも広くなかったが、湖山池(日本で一番大きい「池」です)の再汽水化の際に、県が乱暴な海水の入れ方をしたことがあり、稀少生物のカラスガイという淡水性の貝が絶滅する、と憤激して県に乗り込んでいったことがあるそうで、周囲は冷淡だったが、日本史の人が「城を壊されたら、私も教育委員会に怒鳴り込むと思う。気持ちは理解できる」と言ったら、とても嬉しそうだった、とのことでした。

今は附属中学校長を務め、教育者としての定年が近いようです。新聞の写真は、あの当時のまま老学者の風貌になっていました。最近はコスプレ好きの飛蝗学者や、虫オタクの歌舞伎役者が有名になっていますが、こういう生涯もまた素晴らしい。

斑猫(ハンミョウ)は、未だ東京でも小路は舗装されていなかった頃、草いきれの中を歩くと行く手に飛び出してきて、何故かずっと足元を跳んで行く虫でした。甲羅が綺麗なのと茶褐色なのと2種いましたが、小さいくせに噛みつかれると途方もなく痛い。俳句の世界では、道案内をする虫と見立て、道おしえとか道しるべとか呼ばれています。