仕事の流儀

「プロフェショナルー仕事の流儀」というTV番組があります。ばりばりの仕事人を1人選び、その数日を追うドキュメントです。最後に、主人公に向かって「プロフェショナル」の定義を訊くシーンがあり、それぞれ答に深い含蓄があって面白い。平凡な答であっても、当人の姿勢に裏付けられているので印象的ですが、自前の言葉で自分の職業を表現できる人に遇うと、これこそプロだ、と納得します。自分の仕事を客観的に、独自の観点から総括できるようになって初めて、1人前になったと言えるのでしょう。実際に、そういう答えができる職業人でありたいと思います。

例えば、かつて家を売買した時、取引相手とごたごたしそうになり、巧く捌いてくれた不動産マンに礼を言ったところ、「不動産屋はお客様を安心させるのが仕事ですから」という答えが返ってきて、感心したことがあります。大抵のお客にとって、不動産売買は生涯に1,2度のことなので、不安要因さえ取り除かれればひとりでに話は進む、無理に買わせようとする必要はない、というのです。

教師の場合はどうでしょうか。私はこう考えていますー教えるのが仕事ではない。ひと言で言えば「人間を見る」商売なのだと。学生一人一人の能力や興味や、知的好奇心を見抜いて、それに合った道のありかに気づかせれば、彼らは、後は独りで歩いて行くでしょう。否、独りで歩いて行けるようにするのが教育で、連れて行ってはいけない。

それゆえ、教師自身は英才でなくてもいいのですが、知的世界の存在や雰囲気、それらに対するあこがれを感じさせる必要はあるでしょう。つまり教師の顔に見とれるのではなく、教師の背後に広がっている世界に興味を持ってもらう。自分は文学の世界からの使者に過ぎない、文学はもっと面白いんだよ、というメッセージを無言で発信し続けていたい、と切望してきました。

教師たち

我々の時代、学校の「先生」はお友達ではありませんでした。小学校では、児童と教師(家庭内では、子供と親、も同様に)、はそれぞれ別世界の生物と言ってもいいくらい、厳然たる区別がありました。中学になると、生徒と教師は、子供と大人という別の範疇ではありましたが、子供なりにいろいろな大人を観察する余裕ができ、教科や部活ごとに異なる「大人」(中にはかなりの変人もいた)を見て、(教科以上に)学ぶところが多い毎日でした。

高校(もと女子校の都立進学校だった)では、楽しく過ごしたという同級生もいますが、私の周辺には「暗黒時代だった」という共通認識があります。頭ごなしに伝統と受験の重圧をかけられ、口答えは人非人のすること同然でしたから。しかし当時は前進あるのみという年齢だったので、乗り越えていくことができました。

自分が教師になって振り返ると、随分ひどい教育だったなあと思う例もありますが、それなりに、おかげさまで、と言えるメリットもあったのです。いま同級生たちと会って「あの授業のおかげで・・・」と言い合うのは、英語と古文です(とにかく自力で読める力をつけてくれた)が、当時は無茶で横暴だとの評判でした。

例えば英語は、1学期に教科書を終わらせ、副読本と称してC・ラムの「シェイクスピア物語」やH・ミラー、O・ワイルド、J・ゴールズワージーの「林檎の木」等々を読まされました。親の本棚にはそれらの文庫本があったので(旧字・旧仮名遣いの翻訳でしたが)、恐怖はなく、細切れの教科書よりもまるごと読む小説は面白くもあり、自信もつきました。古文では文法を徹底して叩き込まれ、作品は単なる実例扱いでしたが、合理的な解説と記憶法のおかげで、辞書さえあれば何でも読める実力がつきました。

つまり、教育効果とは、マニュアルや評価基準どおりにはいかないのです。むしろ教科書通りに教える授業は退屈でした。教師用指導書をこっそり買って来れば、寝ていてもいい。あくの強い教師の、自前の教育法こそが半世紀後にも役に立ったと感謝される。しかしその当時は、誰にもそれは保証できない、危険な賭けでもあったのです。いま、そんな教育が可能でしょうか。教師にも、その覚悟はあるでしょうか。

 

平成30年度奨学生

今年度の松尾金藏記念奨学基金の受給者が確定しました。継続者9名(博士課程5,修士課程4)のほか、新たに12名が決まりました。新規採択者の研究テーマは以下の通りです。( )内に専門分野をキーワードで示しました。

博士課程4名:

来迎芸術論再考―法華寺蔵〈阿弥陀三尊及童子像〉を中心にー(人文科学)

病気の子どもの家族のPsychological work と Biographical work(人間発達科学)

造形の考察に基づいたホイッスラーの国際的評価形成の過程の究明(美術)

多文化社会アメリカとエスニックタウン―サンノゼ日本街を事例に―(地域文化)

修士課程8名:

「異国日記」の史料学的研究(地域文化)

本の学校における「言語教育」のあり方と可能性(地域社会)

洋画家中澤弘光に関する研究(比較芸術)

ボーモンとルソーの思想から見る18世紀フランスの教師と社会(西洋史

近現代における「神道」概念の変遷(人文社会)

清仏戦争時の清朝外交政策決定における地方官僚の役割とその影響(比較社会文化)

〈ボルデスホルム祭壇〉における中世とルネサンスの統合の問題(美術)

現代日本における「障害者」への態度に関する基礎的検討(教育学)

来年度応募したい方は、論集『明日へ翔ぶ―人文社会学の新視点ー』(風間書房)の巻末にある「あとがき」と本基金設定の趣意書を一読して下さい(募集先の大学には既刊4冊が寄贈されています)。本来、この基金リベラルアーツの重要性に鑑み、人文系の大学院生を支援する目的で設定されました。それゆえ「将来の日本に役立つ」という学問内容は、幅広くイメージされています。基金の詳細については、三菱UFJ信託銀行(リテール受託業務部公益信託課)のHPを参照して下さい。

なお受給者で結成された同窓会「明翔会」があり、学際的な交流や研究報告会が行われています。

8月の本

本屋へ注文した本を受取りに行きました。近所の本屋は次々潰れて、15分以上歩いて行かねばなりません。カウンターで受け取る前に隣りのコンビニ(いつの間にか、本屋の半分がイートインのコンビニに改装されていた)で飲料を買い、まず新刊書と文庫本の棚をチェックしました。戦争本の棚がぎっしり詰まっているのに吃驚、8月が近いのです。私も伊藤桂一の本を買い足しました。

スーパーへ行こうと区役所を通り抜けたら、地下の広場から音楽が聞こえます。昼休み無料コンサートの開催日に当たっていたらしい。フルートと、篳篥、笙の女性トリオが音合わせをしていました。「グリーンスリーブス」の一節です。急いでユニクロ成城石井で買い物を済ませ、戻ってみると、今度は装束をつけ、フルートでなく横笛が入った3人でした。「雅楽三昧中村さんち」というグループだそうです。「越天楽」と「黄鐘調調子」「拾翠楽」を聴きました。隣に座った女性は楽譜を取り出していたので、雅楽に興味のある人は少なくないのでしょう。最後に「グリーンスリーブス」が演奏されました。輪唱のような編曲になっていて、いかにも雅楽らしく、納得しました。

雷雲が広がってくるのを気にしながら、1階のカフェでホットドッグを頼んだら、「どちらにしますか」と訊かれ、どう違うのと聞き返したら、アメリカンは薄くて・・・と言うので???―珈琲の説明でした。暑さが続いて誰もが集中力を欠いているらしい。本屋は注文を1冊間違えて取り寄せていたし、コンビニでは携帯電話やペットボトルの忘れ物対応に店員が駆け回っていました。小さな不注意はご愛敬ですが、危険な現場などでは命に関わります。気をつけなくては、と思いながらバスに乗りました。

 

 

巴旦杏

今日は河童忌。芥川龍之介に、「漢口」と題する、「ひと籃の暑さ照りけり巴旦杏」という句があります。アジアの市場、酷暑の街、そしてはちきれそうな夏色の果実が眼に浮かぶような句です。

巴旦杏という語は、子供の頃、欧米の翻訳小説か何かで覚えたのだったと思います。ひびきのよい語で、漢字の字面もしゃれているので好きな言葉でしたが、実物を見たことはありませんでした。我が家では、漿果の類は子供には毒だと言って、食べさせて貰えなかったのです(筑後川流域は、かつては水のよくない所で、父の幼い妹は疫痢で亡くなりました。私や弟にとって、大人になるということは、葡萄が食べられるようになることでした)。実際、『今昔物語集』に、よく熟れた李を肴に酒を呑ませて下痢させる話があるところをみると、消化のよくないものなのでしょう。

寅さん映画で、マドンナ役の十朱久代が美容師を演じ、エプロンのポケットから「ほら、巴旦杏」と言って2つ3つ果実を取り出し、片手でぽんと口に入れ、もう一方の手で寅さんに渡す場面があります。ほんの一瞬の場面ですが、寅さんの惚れる気持ちがよく分かるのです。

今はプラムと呼ばれてさまざまな種類が店に出ますが、女の子が口に放り込むには大きすぎるかも。色とりどりですけれど、芥川の詠んだ巴旦杏は、やはり紅紫色の濃い種類でしょう。今年は没後91年になります。

酷暑

連日の酷暑に参っています。週間天気予報を眺めて、10日も我慢すれば楽になるかと期待しても、馬の鼻先の人参のように、先へ先へと延びるだけ。花屋の主人は、舗装の上では膝下の気温が50度になる、と言っていました。美女桜も夕霧草も駄目になり、元気なのは日々草だけです。植え替えました。

近所の肉屋に名物のコロッケ(昔ながらのタイプ。いい油を使っているので美味しい)があるのですが、油の温度が上がりすぎて次々パンクしてしまい、売り物にならない、と女将がこぼしていました。

さきの大戦で、父は武漢に出征していました。彼地の暑さは格別だそうで、「屋根瓦が灼けて止まった雀が落ち、それを咥えた猫が火傷する、という時節の挨拶があるんだ」と言っていました。調べてみると、落雀の候、または烙雀の候という語があるのは分かりましたが、焦猫の候とか、灼猫の候という語は見つかりませんでした。

明日は河童忌。昭和前期の暑さはせいぜい31,2度でしたが、体温より気温の高い日が続くとなると、大半の日本人にとっては風土が変わったと考えるしかない。気象庁は一種の災害時だと言っているようです。夏休みは文字通り休むべきでしょう。

あたりの熱のあるものが、みなうとましい。朝、薬缶の湯を沸かすのにも気合いが要ります。机上のPCの熱も御免。それゆえ、本日はこれにて擱筆

日本霊異記の地蔵説話

霧林宏道さんの「地蔵説話の享受と展開―『日本霊異記』から十四巻本『地蔵菩薩霊験記』までー」(「國學院雑誌」7月号)を読みました。『霊異記』中唯一の地蔵説話である下巻第九話を取り上げ、『宇治拾遺物語』、『地蔵菩薩霊験記』とその絵詞、公誉法印草「藤原広足縁」などと比較し、先行研究を吟味しながら、『霊異記』には、伝承の筆録だけでなく作者の創意工夫があること、『宇治拾遺物語』が人物各々の言い分をおだやかなユーモアに包んで述べており、『霊異記』からの直接の書承ではないらしいこと、「藤原広足縁」は、亡妻供養の説草という目的に合わせた叙述になっていること、また『地蔵菩薩霊験記』の類は、他の説話を取り込み、説明を増やして読み物として複雑化させていること等を述べています。

霧林さんは野村純一さんのお弟子さんで、民話の採集など現在も伝承文芸の研究を続けている高校教諭です。私が宇都宮大学大学院に赴任した年、偶々、栃木県からの派遣研修員として修士課程に入学して来ました。県からの派遣は、修論を1年で書き上げ、2年目は現場復帰しなければなりません。説話は口承されたものという立場から書く所存だったようですが、私が一言「『霊異記』は書き言葉の作品だから、口承だけでは説明できないのでは」と言ったところ、文献資料を猛勉強し、修論は副査の先生からも褒められました。

私は、高校に勤めながら研究を続ける人には、年に1回の学会発表または1本の論文投稿をノルマとするよう、勧めています。とにかく止めないことが大事、とも。霧林さんはそれを守り、年々、少しずつ論文の視野が広がって来ているようです。

但し、紙数の制約があったのでしょうが、本論文の結びの文章はやや貧弱。また29頁上段、主人公名「ひろたり」が、『宇治拾遺物語』で「ひろたか」と変化しているのを口語りのせいかと推測していますが、音は類似していない。むしろ変体仮名の「か(字母は可)」が「り(利)」に紛れた可能性の方が高いのでは。