「プロフェショナルー仕事の流儀」というTV番組があります。ばりばりの仕事人を1人選び、その数日を追うドキュメントです。最後に、主人公に向かって「プロフェショナル」の定義を訊くシーンがあり、それぞれ答に深い含蓄があって面白い。平凡な答であっても、当人の姿勢に裏付けられているので印象的ですが、自前の言葉で自分の職業を表現できる人に遇うと、これこそプロだ、と納得します。自分の仕事を客観的に、独自の観点から総括できるようになって初めて、1人前になったと言えるのでしょう。実際に、そういう答えができる職業人でありたいと思います。
例えば、かつて家を売買した時、取引相手とごたごたしそうになり、巧く捌いてくれた不動産マンに礼を言ったところ、「不動産屋はお客様を安心させるのが仕事ですから」という答えが返ってきて、感心したことがあります。大抵のお客にとって、不動産売買は生涯に1,2度のことなので、不安要因さえ取り除かれればひとりでに話は進む、無理に買わせようとする必要はない、というのです。
教師の場合はどうでしょうか。私はこう考えていますー教えるのが仕事ではない。ひと言で言えば「人間を見る」商売なのだと。学生一人一人の能力や興味や、知的好奇心を見抜いて、それに合った道のありかに気づかせれば、彼らは、後は独りで歩いて行くでしょう。否、独りで歩いて行けるようにするのが教育で、連れて行ってはいけない。
それゆえ、教師自身は英才でなくてもいいのですが、知的世界の存在や雰囲気、それらに対するあこがれを感じさせる必要はあるでしょう。つまり教師の顔に見とれるのではなく、教師の背後に広がっている世界に興味を持ってもらう。自分は文学の世界からの使者に過ぎない、文学はもっと面白いんだよ、というメッセージを無言で発信し続けていたい、と切望してきました。