源平の人々に出会う旅 第8回「神奈川県・石橋山の戦い」

 治承4年(1180年)8月、ついに頼朝は挙兵、伊豆の山木兼隆館に夜討をかけ勝利を収め、続いて大場景親を討つべく石橋山(小田原市)に布陣します。

【佐奈田霊社(与一塚)】
 石橋合戦で特に活躍したのが佐奈田与一です。岡部弥次郎を斬った後、景親の弟俣野五郎を組み伏せますが、付着した岡部の血で刀が鞘から抜けず討たれてしまいます。その場所は「ねじり畑」と呼ばれ、現在はみかん畑が広がっています。『源平盛衰記』は与一が病中であったとしますが、そのためか味方を呼ぶ声を出せなかったという伝承があるようです。与一を祀る佐奈田霊社は喉の病気平癒祈願所として知られ、境内には「与一塚」碑や与一の「手附石」があります。

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文三堂】
 与一の幼少期から仕えていた文三家安も、与一の後を追って討死します。狂言『文蔵』は、この文三家安のことで、太郎冠者が食べた食べ物の名前を思い出させるために、長々と石橋合戦のストーリーを語る話です。

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【鵐の窟(しとどのいわや)】
 源氏の敗色が濃くなり、頼朝は土肥杉山の「鵐の岩屋」という谷にあった大きな伏木の穴に主従7人で隠れます。梶原景時が頼朝を見逃したエピソードは有名です。
 鵐の岩屋伝説地は真鶴と湯河原の2ヶ所にあります。真鶴港付近にある鵐の窟は、御堂と赤い橋が目印です(写真右が鵐の窟)。

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【岩海岸】
 頼朝は杉山から真鶴に向かいますが、眼下には敵軍に放火された民家が広がります。この時、土肥実平は「土肥に三の光あり」と舞を舞って頼朝を励ましますが、その場所が「謡坂」とされます。頼朝は岩海岸から舟に乗り、安房国を目指します。海岸の高台に「源頼朝船出の浜」碑が建っています。

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〈交通〉
JR東海道本線根府川駅早川駅真鶴駅
              (伊藤悦子)

リハビリ

5月末に転倒して右膝の靱帯を損傷し、外出が不自由でしたがようやく痛みが取れ、自己流のリハビリ態勢に入りました。スポーツをやっていないので大きな怪我をした経験がなく、大学院時代に足首を捻挫して以来でした。あの当時は勤め先が決まらず、高校の非常勤を週16時間掛け持ちし、家事にも逐われていて(しかし家族は私が忙しがるのを嫌がるので、朝食後の珈琲を済ませるまではゆっくりしたふりをし、玄関を出たとたんに走るような日々でした)、玄関の前で捻挫したまま4時間授業をして帰ってきたら、高熱が出て震えが止まらず、近所の接骨院で手当てをして貰いましたが、今でも右のくるぶしは変形したままです。それで、専任になった方が楽(当時の都立高校は週14コマがノルマだった)と考えて教採を受け、専任教諭になりました。

子供の頃は裸足で駆け回り、転んで膝の出血が止まらぬほどの怪我もしたのですが、知人から「子供の時の転倒と、大人になって頭が重くなってからの転倒では、怪我が全く違う」と笑われました。医者は「永くかかるよ、3週間安静!」と言っただけだったため、鎮痛剤を避け、小さな椅子に座って(つまり膝を曲げたまま)仕事をしながら安静にした所存でいたのが、永くかかった原因のようです。

未だ正座ができず、重い物を持って永く歩くことや、掴まらずに階段を昇降することができませんが、治る見通しが立ちました。親の家の処分で疲労が溜まっていたのと、2年前から腰痛で使い始めた杖を何とかやめようと焦っていたことが遠因だと、反省しました。お見舞やご心配の言葉を下さった皆様、ありがとうございます。「怪我の高名」にコメントを書いてくれた佐藤孝さんは、あの頃の非常勤先の教え子の1人で、大手通信会社に勤めていたはず。以前、「第三世代の開発をやっています」という手紙をくれたのですが、無知な私が、第三世代って何かと訊いたので呆れたらしく、しばらく音信不通になっていたのでした。

田村伝承

佐々木紀一さんの論文「田村利仁伝承と鹿島神の縁起」(「国語國文」5月号)を読みました。室町物語の『田村草子』、『鈴鹿草子』、奥浄瑠璃『田村三代記』などの構成要素を多様な資料の中に求め、室町時代には田村利仁伝承が鹿島縁起と交錯していたと予測しています。佐々木さんの資料博捜にはいつも舌を巻くばかりで、それらが同一線上に扱ってもいいものなのか、判別しかねて見守るだけ、という場合も少なくありません。おまけに、勤務先の雑誌数種に毎年寄稿しているのですが、その中には国会図書館にすら所蔵されていないものもあって、入手するのに苦労します。

ぜひ、単著として刊行して下さい。平家物語で1冊、周辺の資料探索でもう1冊(中世の豊穣かつ奇怪な伝承世界が展開されるでしょう)で出せるくらいの量はもう貯まっていると思います。出そうという版元もあるはず。なお仮名遣いは、現代仮名遣いにして下さいね。

読みから始まる

原田敦史さんの論文を3本読みました。

平家物語富士川合戦譚考(「国語と国文学」8月号)

延慶本『平家物語』壇浦合戦二題(「岐阜大学国語国文学」41 H28/3)

四類本『保元物語』論(「岐阜大学国語国文学」42 H29/3)

3本に共通するのは、自らの眼で読み抜いた作品の基本構想、それに矛盾する要素あるいはそれを強化する改編をとらえることを、作業の中心に据える方法です。しかもその読みのみずみずしさと緻密さは、以前よりいっそう、水準を上げてきた観があります。富士川合戦譚考は昨夏の軍記・語り物研究会で発表されたものですが、頼朝挙兵記事が平家物語本来のもので、語り本はそれを大胆にカットしたのだという成立論にまで踏み込もうとしています。今後、議論が交わされることを待望します。

昨春の論文は、延慶本の壇浦合戦記事中、教経が大童になる記述と遠矢記事とに注目して、延慶本は、義経との対決にこだわる知盛の最期を以て壇浦合戦を閉じる構想を明確化しようとしたのだというもの。やや舌足らずな観はありますが、延慶本の構想を独立させて読もうとする試みは貴重です。古態、原態の問題意識でのみ読まれがちな延慶本もまた、読み本系祖本から分岐して特化してきた履歴をもつはずだからです。

保元物語』の論文は、四類本(金刀比羅本・宝徳本)では暴れん坊源為朝の造型が、保元の乱においては一旦勝者となる兄義朝に対峙して、一族の枠を踏み越えず、新院の権威の下で戦う武士像として整理されていくことに注目し、保元物語の構想と流動展開に向けて立論しています。私もかつて、一類本(半井本)の為朝は「一族の中に己れの位置を収めきれずに挫折するヒーローであり、骨肉の葛藤を描く保元物語のまさしき主人公であった」と論じたことがあった(『軍記物語論究』1-3)ので、興味ふかく読みました。保元物語平治物語は現在、作品論が停滞していると思われるので、議論が盛んになることを期待します。

諸本比較や史料紹介だけでは軍記物語研究は文学らしくなりません。自らの読みに賭けて、そこから大きな問題へ向かっていける胆力と命中力とを養いたいと思います。心は剛に、矢は精兵で。

 

古筆切研究

小島孝之さんの論文2本を読みました。

新出田中親美氏旧蔵「藤原定家筆書状案」の紹介と考察(「成城文芸」240)

古筆切拾塵抄・続(九)―入札目録の写真から―(「成城国文学」33)

前者の切は個人蔵。定家が建暦元年9月22日、叙位任官の拝賀について新蔵人家資に連絡した手紙の控えに、後日、津守経国から依頼されていた住吉社への奉納歌をメモしたものであることを解明した上で、附属書類や野村美術館蔵の写しについても考察しています。単なる資料紹介に留まらず、丁寧な追跡・考証が味わえます。

後者は、過去の入札目録類から、他に紹介されていないものを中心に写真転載と翻字をしており、彼がずっと連続して行っている作業です。あまり学問的とはいえないように思われそうですが、古筆切の厖大なデータベースを構築しようとしてこつこつやっているのらしい。大学の演習でも多様なジャンルの古筆切をとりあげていたようです。同じく文学を専攻しても、こういう、コレクションに情熱を注げる人と私とは、つくづく性格が違うんだなあと、妙な感服のしかたをしています。畏友というのでしょうか。

物質の年代と文学の「時代」

地質学専門の中学時代の同級生が、自分たちのやっている研究会で発表しないかと誘ってくれたので、土木工学・地形学・地質学・地震学などを専門とするシニアの研究会・資源セミナーで、「物質の年代と文学作品の「時代」」と題して、炭素14年代判定法が平家物語研究に与えた衝撃(が正しく受け止められていないこと)について話をしました。長門切の話です。

専門の異なる方々が熱心に聞いて下さり、英文学の多ヶ谷有子さんや中古文学の圷美奈子さんもそれぞれパートナーを連れて聴きに来て下さって、恐縮しました。発表後、例えば非破壊検査で墨の年代を判定することなどはできないのかという質問が出たり、そういうことはきっと出来る、出来る人を見つけるために、この11月に科研費を申請して理系の人と共同研究をしてはどうか(私はもう所属機関がないので科研費申請は出来ない)と勧められたりしました。元気が出ました。

もう1本の発表は活断層についてで、専門用語や研究史が分からないまま聞きましたが、活断層というものについては、災害報道や政策立案では断定的に言われていることも、じつは未だ仮説や推定部分が多いのだということを知らされました。

帰りに地質学専門の人とお茶を飲んだのですが、現役時代、調査のために山岳を歩いて、熊や羚羊に遭遇した経験談を聞きました。帰路、夕立が上がった路傍では秋虫が鳴き始めていました。

奨学金問題・その2

6月下旬に奨学金問題を扱った新書がさらに1冊出たことを知りました。

今尾晴貴『ブラック奨学金』(文春新書)

私は未だ読んでいませんが、ネット上に要約や読者の感想が出ていますので、およその内容を知ることができます。統計の数値は、恐らく2月に出た『奨学金が日本を滅ぼす』(朝日新書)、『奨学金地獄』(小学館新書)と共通していると思いますので、改めてここでそれらを繰り返すことはしません。

ただ、次のような問題点はひろく認知して欲しいと思います。①奨学金制度は2004年を境に大きく変わってしまったのに、親・教師の世代がそれを十分理解していないこと、②ローンやクレジットカードの普及に伴って「借金」を怖いと思う感覚が鈍麻したこと、③ライフサイクルの変化により子の進学と親の定年がぶつかる場合が多くなったこと、④以上にも関わらず高等教育の費用は右肩上がりに上がり続けていること(国公立教育機関の授業料が私立に接近し、努力次第で安い学費を選べる機会がなくなった)。殊に①については重要です。当時、奨学金の返済率があまりに低くなり、育英会の事務方の怠慢だと批判が強かったことは覚えているのですが、その結果、今のようなシステムに変えられたことを詳しくは知りませんでした。通常、貸し付けに当たっては返済能力の審査があるのに、奨学金では将来の事情は分からぬまま(現況では、大学を出たからといって定収のある職に就けるとは限らない)貸すのだから、回収に当たって闇金サラ金並みの取り立てをするのはおかしい、という指摘は尤もだと思います。②についてですが、親は奨学金を借りるに当たって、子自身に当事者であることをよく認識させて欲しいものです。通常の住宅ローンでもなかなか元金は減っていかず、およそ借りた額の2倍を返す心算でいろ、というのは常識でしょう。奨学金ではその上、ややこしい延滞金制度などがあるのです。

私がこの頃の奨学金はどうも変だ、と思い始め、友人の「奨学金という名称は詐欺に近い」という言葉を理解出来るようになった経緯は、また別に書きたいと思います。高校の進路指導担当者、大学人、そして文部官僚と文教族の議員には、ぜひこの問題を我がこととして考えるよう、望んでやみません。