源平の人々に出会う旅 第8回「神奈川県・石橋山の戦い」

 治承4年(1180年)8月、ついに頼朝は挙兵、伊豆の山木兼隆館に夜討をかけ勝利を収め、続いて大場景親を討つべく石橋山(小田原市)に布陣します。

【佐奈田霊社(与一塚)】
 石橋合戦で特に活躍したのが佐奈田与一です。岡部弥次郎を斬った後、景親の弟俣野五郎を組み伏せますが、付着した岡部の血で刀が鞘から抜けず討たれてしまいます。その場所は「ねじり畑」と呼ばれ、現在はみかん畑が広がっています。『源平盛衰記』は与一が病中であったとしますが、そのためか味方を呼ぶ声を出せなかったという伝承があるようです。与一を祀る佐奈田霊社は喉の病気平癒祈願所として知られ、境内には「与一塚」碑や与一の「手附石」があります。

f:id:mamedlit:20170803104228j:plain

 

文三堂】
 与一の幼少期から仕えていた文三家安も、与一の後を追って討死します。狂言『文蔵』は、この文三家安のことで、太郎冠者が食べた食べ物の名前を思い出させるために、長々と石橋合戦のストーリーを語る話です。

f:id:mamedlit:20170803104341j:plain

 

【鵐の窟(しとどのいわや)】
 源氏の敗色が濃くなり、頼朝は土肥杉山の「鵐の岩屋」という谷にあった大きな伏木の穴に主従7人で隠れます。梶原景時が頼朝を見逃したエピソードは有名です。
 鵐の岩屋伝説地は真鶴と湯河原の2ヶ所にあります。真鶴港付近にある鵐の窟は、御堂と赤い橋が目印です(写真右が鵐の窟)。

f:id:mamedlit:20170803105204j:plain

 

【岩海岸】
 頼朝は杉山から真鶴に向かいますが、眼下には敵軍に放火された民家が広がります。この時、土肥実平は「土肥に三の光あり」と舞を舞って頼朝を励ましますが、その場所が「謡坂」とされます。頼朝は岩海岸から舟に乗り、安房国を目指します。海岸の高台に「源頼朝船出の浜」碑が建っています。

f:id:mamedlit:20170803105544j:plain

 

〈交通〉
JR東海道本線根府川駅早川駅真鶴駅
              (伊藤悦子)