喫茶店今昔・その2

世田谷のある駅裏に、「提督」とか「艦長」とか訳す、いかにも男のロマンらしい名の小さな喫茶店がありました。入り口はうらぶれた感じでしたが、中はあかるくて、何よりもカウンターやテーブル、銀色の砂糖壺がぴかぴかに磨き上げられているのが印象的でした。無口な男2人でやっていて、いつも銀器を磨くか珈琲豆を1粒ずつ選っていました。小鳥の絵のついた小さな飾り皿が壁に掛けてあるのが唯一の飾りで、花も何もありません。それが、清潔なゴージャス感のもとになっていたのです。

私はたまに昼下がりに入るくらいでした。カウンターの男性客とマスターの会話も静かで、何だか雰囲気を緩めたくなかったからです。

ある日、その雰囲気ががらりと変わりました。マスターだった兄が子連れの女性と結婚し、再婚妻が張り切って弟を追い出し、店を仕切り始めた―事実かどうかは分かりません、私が勝手に描いたストーリーです。そういう雰囲気に変わった、と思って下さい。

ちょうどマスターが外出していて、カウンターにいた女性が私を見ると、「こちらへ」とカウンター席を指定しました。店は空いていたし、私は本を読みたかったので、窓際へ座る心算だったのですが、しかたなくカウンターへ座りました。女性は、離れたテーブル席の知り合い(ママ友?)とカウンター越しに話をします(つまり、店中を仕切る)。おでん屋やお好み焼き屋じゃあるまいし、と思いながらふと見ると、カウンターには木槿の花が活けてありましたが、庭先から剪ってきたらしく、大きな蟻が蘂を這い回っています。そこへマスターが帰ってくると、女性は、さっき風体の怪しい客が来て困った、という意味のことを息せききってまくし立て、私はついに悲しみに耐えられなくなり、思わぬ言葉が口から出てしまいました。この店はほんとに好きだったのに、と。そのまま勘定をして店を出ました。木槿の蟻のことは言いませんでした。

以来15年、あの店に行ったことはありません。ネット検索したところ、あの名前が食べログに高得点で出ている。何度も見直しましたが、あの場所です。珈琲豆を選っているマスターがいい、とのこと。歳月は何を変え、何を変えなかったのでしょうか。行ってみたい気もしますが、そっとしておきましょう。