家ごとの「さきの大戦」・学校給食篇

茅ヶ崎第一小学校は、私が入学した当時生徒数3000人といわれました。朝礼のラジオ体操で脇に曲げる運動の時、腕が脇腹に当たる音が谺を呼ぶほどでした。下駄履きで通学し、休み時間になるとさっと裸足になって、石蹴りやおはじきで遊ぶのですが、空襲の爆風で割れたガラスの小さな破片が未だ砂の中にざらざら混じっていました。昭和28年頃には砂に磨かれてほどよく角がとれ、女の子たちは自分専用の石蹴り用の石をその中から選びました。教室へ持って入ると叱られたので、校庭の隅にこっそり埋めておくのです。

給食はパン、ミルク、おかず1品をアルミの食器で食べました。何しろ校庭が広いので上級生は、低学年の分のバケツも運んでやってから、自分たちの配膳です。ミルクは脱脂粉乳でした。アメリカのララ物資(Lara。在米日系人が作った日本難民救済会、米政府のガリオア資金、ユニセフなどが協力)によるもので、今では不味かったことで評判のようですが、私たちの世代は子どもの分際で食事をあれこれ批評することは許されていませんでしたし、ほかに特別美味しい物があるわけでもなかったので、黙って飲みました。ある日、いつもよりよく飲まれてバケツの底が見えた時、何か分からぬ黒い滓が残っているのを見て、ほんとうは飲んでいい物だったのか?という疑問がちらと浮かんだことを覚えています。

しかし、栄養失調すれすれの子どもたちを助けて貰ったことには違いありませんし、日本人も難民と呼ばれた時期があったことは覚えておいていいことでしょう。たまにおかずに鯨の南蛮揚げが出されると、大御馳走でした。やがて給食は本物の牛乳に変わりました。当時は牛乳はちょっと贅沢な食品で、「1日3合の牛乳が飲める政治を」というスローガンを掲げた野党の党首が、巨体で牛乳瓶を飲み干すポスターが出回っていました。近年の給食は美味しくなっているらしく、同級生が子育てのさなか、息子から「お母さんも給食のような美味しい御飯作ってよ」と言われて、脳天を殴られたような衝撃を受けたと言っていました(授業参観で、デザートもついた給食を試食し、自分たちの時とは違うんだと納得したそうです)。

互いに年齢が近いけど正確には知らない者同士が同座したとき、さりげなく年齢順を探る方法が、世代ごとにあるようです。私たちの場合は給食に何が出たか、です(地域によって多少違う)。親の世代は戦地はどこへ行かされたか、だったそうで、うっかり若い部下に向かって「それで君、戦時中は?」と訊いてしまって、憤然と「未だ生まれてません!」と言われ、「失敬失敬、口癖になってるもんだから」と言い訳したと言っていました。私たちより後の世代はお気に入りのアニメの主人公、さらに今はゲームの主人公を訊くらしい。