治承4年(1184)5月30日、以仁王の乱の鎮圧直後、突如清盛は翌月3日に福原遷都を行うと公表します。まさに青天の霹靂で京都は大混乱になりますが、清盛が遷都の日を2日に繰り上げたため、ますます混乱を極めます。
【雪見御所】
清盛は以前から福原の別邸に居住していました。『平家物語』諸本によると、「花見ノ春ノ岡ノ御所、月見ノ秋浜ノ御所、雪見原ノ萱ノ御所、船見浜ノ浦御所」(『源平盛衰記』)などがあったようです。
【平頼盛山荘(荒田八幡神社)】
慌てて遷都したものの、新都造営はこれからという有様でした。安徳天皇は頼盛(清盛の異母弟・池殿)邸に入ります。現在の荒田八幡神社の地一体が頼盛の山荘跡地で、源通親『高倉院厳島御幸記』には、厳島御幸の帰路、頼盛邸で笠懸・流鏑馬を行ったことが記されています。境内には「安徳天皇御在所址」碑が建っています。
【萱の御所】
清盛は鳥羽殿に幽閉していた後白河法皇を福原に移し、粗末な板屋を造って監禁します。その様子から、童部達は「牢の御所」と呼んでいました。『源平盛衰記』は、11月11日に安徳天皇が新内裏へ移ると同時に、後白河法皇も牢の御所を出て、夢野(兵庫区夢野町)の新御所に移されたとしています。