熱中症予防水

高齢者あんしん相談センター(どうして真中だけ平仮名なの?)から、人がやって来ました。後期高齢者をチェックして歩いているようです。あれこれ個人情報を聞き出し、塩飴をくれようとするので、桜花で作った我が家の熱中症予防水をプレゼントして、帰って貰いました。

65歳になったとき、とつぜん民生委員(と称する人物)がやってきて、何やら要領を得ないことを言うので、ドアロックを開けずに帰しました。区からアンケートが来て、「電話番号を自分で調べてかけるか」という質問にNOと答えたら(今どき、調べなければならない電話番号には電話しない)、認知症予備軍とされて、ケアマネから電話がかかってきました。区の地域包括ケアでは、そういうアクセス数を、年間の事業達成度ととらえて記録していくのです。対象者の必要とは噛み合っていない。

一所懸命働いていることは分かりますが、相手あっての仕事なのだから(どんな仕事もそうですが)、もっと耳を澄まし、眼を配り、気を遣う態勢が必要であることに気づいて欲しい。今後、介護を受ける身になることを思うと、暗然とします。

ところで我が家の桜花水。水150mlに砂糖3g、塩漬の桜花1房を入れて、冷蔵庫で冷やします。1回飲んだ後も水を足して冷やせば、未だ塩味が残っています。ほんのり桜花の匂いがして、見た目にも綺麗。春先に、スーパーで桜の塩漬を安売りする時があるので、買い込んでおき、残った塩は茹で玉子に振ったり、冷奴に乗せたり。冷酒には塩だけでも肴になります。

老人力

山に迷い込んだ2歳児を、はるばる駆けつけてきて救出した老人に感嘆しました。TV報道で視る限りの印象ですが、マニュアルや研修で得た技術でなく、78年間自力で生きてきた人の能力と信念が、輝いていると思いました。

子供に呼びかけながら、単身で山へ入ったこと、まずは空腹かどうか、現在の体力や対話の可能性を飴玉を差し出して確かめたこと、バスタオルにくるんで抱きしめて下山したこと、家族に子供を「うんと褒めてやって下さい」と言い置いたこと―登山の経験を積んでいるとはいえ、状況を、相手側からよく見ています。老人は、いや若くても、こういう風に状況をよく見て、果断に行動するのはなかなかできないことです。そして、目的を果たしたら風呂も食事も断って帰ったこと、発見した瞬間や母親の喜びようを話しながら涙したこと・・・純粋でしかも毅然としている。話している最中に、大きな蜻蛉が飛んで来て手に止まったのが、勲章のように見えました。

翌朝のTVでは、日本軍が侵攻した後荒れてしまった南方諸島で、現地の人に胡椒栽培を教え、若者が地元で生活できるようにした老人に、インタビューしていました。老人力、という語が流行ったことがあります。未練がましい語だと思っていましたが、たしかに老人になったからできること、というのもあるのかもしれません。それにはまず体力がないと・・・時すでに遅し、か。 

与える

スポーツマンが抱負を述べる際に、この頃よく、勇気と感動を「与えられるように」がんばります、などと言います。かちんと来ます。殊に、何もかも周囲の支えがあって成り立つ高校生スポーツなどでは、指導者は何を教えてんだ、勘違いさせるな、と言いたくなります。

スポーツマンは、まず自分自身のために、記録や順位に挑戦して貰いたい。それが、支えている人たちの喜びとなり、結果としてファインプレーが感動を生む。他人に見られるため、勇気や感動を「与える」ために、リスクを冒して人体の限界に挑むのなら、見る方からはお断りしたいと思います。どうしても言いたければ、「見て、喜んで頂けたら嬉しいです」と言いなさい。

地方公務員のまま自己流でマラソンに挑戦していた若者に、声援が集まったのは、本人が感動を「与えよう」としたからではなかったでしょう。自分自身の目標目がけて、自分の条件の中でがんばる姿に、「見る側の感動があった」のです。

五輪などに日本代表として出場して敗れ、あかるく「楽しめました!」と言うスピーチにも、ちょっと白けます。言うなら、その後に一言、ありがとうございました、とつけ加えて欲しい、そうすれば一緒に楽しめるのに。あ、そうそう、勝って帰ってきたら、皆さんのおかげです、なんて言わなくていい。私の力で勝ちました、と言って下さい。

貝になる

TVで初めて反戦を宣言したドラマとして記憶されているのが、TBSの「私は貝になりたい」(1958/10/31放映)でした(私にはそう記憶されているのです)。翌年劇場版もできました。私が観たのは劇場版だったかそのTV放映だったか、コメディアンだったフランキー堺が、口下手で気の弱そうな主人公にぴったりでした。

いそいそと生業に励む小さな床屋の親父(チャップリンの「独裁者」が連想されます)が、二等兵だった戦時中の行為を咎められ、BC級戦犯として言い開きもできずに死刑になる。刑場へ引かれていく途中で、囚人たちが「元気でね」と声をかけるシーンは忘れられません。そして被さるモノローグ―今度生まれ変わるならば、私は深海の貝になりたい。

当時の技術では未だVTRが使えず、前半が一発撮りのフィルム、後半はスタジオからの生放送だったことを知りました。勿論白黒です。その後、所ジョージ中居正広の主演でリメークされたそうですが、私は関心が持てず、視ていません。脚本家橋本忍の名前は以後、記憶に残りました。「羅生門」や「鰯雲」「砂の器」など数々の名作を出し、黒澤明松本清張横溝正史の名と共に一世を風靡しましたが、あの白黒の「私は貝になりたい」が代表作だったと、今でも思っています。

BC級戦犯の刑執行にはかなり理不尽な例が含まれ、食糧難の時代、苦心して手に入れた牛蒡を捕虜に食べさせたら木の根と誤解して虐待とされた、という話もありました。家族たちも減刑を求めて、あらゆる苦労を重ねたようです。脚本の方は、原作者の権利を主張した人物との間に確執があったり、黒澤明に辛口の批評をされたり、その後の60年間には、いろいろなことが起こったのでした。

青春文学

高山実佐・東直子・千葉聡編『心に風が吹いてくる 青春文学アンソロジー』(三省堂   ¥1900+税)を読みました。表紙の絵がすてきです。

本書は小説20篇の抜粋と詩・短歌・俳句を、1友情を胸に、2恋のかたち、3私って何だろう、4家族がいるから、5さまざまな状況を生きる、6未来に向けて、の各章に配し、東さんのエッセイ4篇も入れて編まれています。各章の最後に抜粋された小説のあらすじと解説、そして千葉さんの推薦する本3冊のブックガイドが付されています。

青春文学と呼べるものが今はこんなに数多く、バラエティに富んでいることに、まず驚きました。私たちの世代で青春文学といえば、「オリンポスの果実」が有名で、あれは確かに健康的だが退屈、童話を卒業して後は、親の本棚から手当たり次第に抜き出して読んでいました。本書には朝井リョウ、宮下奈都、山田詠美古井由吉綿矢りさ穂村弘江國香織三浦しをん・・・流行作家を始め力量のある作者たちが、目白押しです。私が初めて見る名前も多く、今度本屋へ行く時は、本書を携行して文庫本の棚を物色しようと考えています。

作品選定は勿論、恐らく抜粋のしかたも抜群なのでしょう。現代の若者たちを取り囲んでいる世界を、内側から見るとこうなのか、と思いました。決して説教臭くなく、また大人の憧れる青春幻想でもなく、例えばイリーナ・コルシュノフやジョン・グリーンの作品には、いま世界で最も尖った問題が、若い世代の視点から捉えられています。

一つ、えっ!と思ったこと―現役高校教諭の千葉聡さんの「ジョー、ジュディ、アンの友達」は、少女小説とのみ見られている作品も、読み込めば人生の大事な問題を抱えているのだ、というメッセージなのでしょう(全編を読んでみないと判りません)が、『山月記』を、教室で自虐ネタと共に教えられる度胸には仰天。あの作品は初めて読んだ時怖くて、教師として扱う際も深掘りできませんでした。何故なら私もあの頃、創作者になりたいとの心底の秘め事があって、李徵の運命が他人事ではなかったからです。

揚がる花火

今年は各地の花火大会のTV中継が多くて、見比べながら楽しんでいます。柏崎、長岡、両国、琵琶湖、東京湾・・・やはり夜空の大きい所、水面の広い所が見応えがあります。花火の色彩も図柄も、そして打ち上げる組み合わせ、デザインもさまざまになりました。花火師たちには、職人の意地だけでなく、企業秘密ともいうべき張り合いがあるらしい。打ち上げるプログラムごとに題名がついていることもあり、柏崎では地元の逸話や諺らしい名もあったので、TV側は一言、説明すべきだと思いました。

子供の頃、今日は花火大会、というのでいそいそ海岸へ出かけ、ぽーん、ぽーんと間を置いて空に開く花火を見た記憶、地方勤務だった頃に帰京する車中から、熱海の辺でしょうか、音の聞こえない遠花火を眺めたこと、用賀に住んでいた頃、勤務先から帰ってくると、行く手の路上すれすれに大輪の花火が開いて吃驚したこと・・・いろいろ思い出します。土地によっては、空襲や大火の鎮魂のために催される所もあるらしい。打ち上げ花火を楽しめるのは、何より平和な証拠です。この楽しみは大切にしたい、今後100年も、150年も、日本の近代史と共に。

TVの中では、タレントたちのお喋りがうるさくて閉口します。音消しでは花火の音が楽しめず、我慢しながら視ていると、しきりに「うちあがる」という言い方をするのが気に障るのです。「打つ」は他動詞、「揚がる」は自動詞、複合動詞にはなりません。花火は「揚がる」か「打ち上げられる」かのどちらかでしょう。

立川の花火大会は雨で中止になりましたが、用意された花火は特許の問題があるので、そのまま焼却するのだそうだ、と知人が言っていました。焼却炉の中で、誰にも見られず、つぎつぎ開いていく花火ー想像するだけでも怖いほど悲しい。

 

宗祇から紹巴まで

鶴崎裕雄さんの「宗祇から紹巴までー連歌における室町後期と織豊期の相違ー」(「芸能史研究」220号)を読みました。①応仁ー元亀年間(1467-1573室町後期)と②天正―文禄年間(1573-1615織豊期)とでは、連歌師と、顧客に当たる地方大名・武士たちとの関係が変わり、①では京都の連歌師が地方へ、大名・武士を訪ね、②では地方から大名・武士が上洛して連歌師を訪ねるようになることを、連歌師の紀行文や日記を資料に考察しています。

連歌師としての宗祇と紹巴の年譜を比べてみると、紹巴の方が若く(20代)から名を成していたらしく、宗祇は40代以降、地方への旅が多くなることが判ります。室町後期・戦国期には連歌師たちは盛んに地方へ下り、地方の国人領主たちはこれを歓迎し、都の文化・古典の知識を吸収しようとして、多額の餞別銭を提供しましたし、連歌師の方も、顧客の文芸好きと繁栄とを寿ぐ言葉をサービスしたようです。織豊期には前代に比べ旅がしやすくなり、地方武士たちが大名に従って続々上洛し、連歌師を訪ねて共に時を過ごすことが多くなったそうです。

この時期は、平家物語が次々に混態本を編集、成立させていた時期に当たります。戦争が交通を発展させる、とは近代の欧州でよく言われることですが、日本の中世にも通用するらしい。地方武士たちの文化水準は、徐々に上がって来ていたのでしょう。鶴崎さんの手紙には、近年の銭の研究の進展に瞠目しながら、新たな勉強に取り組んでいる、とありました。連歌師の活動を知ることが、さまざまな分野につながっていくと分かりました。