瑞風

豪華列車で行く旅が話題になっています。九州一周は未だしも、山陰本線一泊二日の旅には違和感を覚えました。あの辺は、路線バスや単線の列車を延々と乗り継ぐか、自転車・バイクなどで道を辿って行って初めて、土地柄のよさがわかるルートではないでしょうか。城崎から鳥取へはたっぷりと草の中を流れる円山川沿いに、鳥取から白兎海岸、東郷池汽水湖です)、淀江、名和の海岸線は明るい夏の景色と共に、私には記憶されています。竹取伝説、古事記から太平記まで、さまざまな伝承が残っている所です。考古学的にも貴重な遺跡遺物が多い。

松江・出雲を出てから江津、浜田、益田と下っていく海岸線は、窓下の断崖に白く波が打ち寄せ、叢に点々と咲く朱色の百合の花が印象的でした。風景は厳しく寂しいようですが、この辺は雪舟の造った庭や日本料理の有名な料亭などがあり、萩へ仕事で行った帰りに益田で途中下車して、素敵な夕食を摂ったこともありました(山陰本線は駅弁のある駅は少なく車内販売もごく一部しか来ない)。

萩、長府、下関はそれぞれ歴史のある町です。鳥取から萩へ国文学研究資料館の依頼で文献調査に行き(JRで最短9時間かかった)、物指しを忘れたことに気づいて駅員に文房具屋を訊いた(何せ通行人がいない)ところ、「近くにはない」との返事。途方に暮れた(文献調査に物指しは必須)のですが、用途を聞いたJR職員たちが、「それじゃゲージをやろう」と言って、鉄道工事で使う紙の物指しをくれました。軽くて正確なので、30年後の今も、私の「緊急調査セット」に入れてあります。

茶漬

ベーコンのお茶漬というものがあります。未だ働き盛りだった父が料亭の朝帰りに出されて覚えてきたものを、我が家でアレンジしました。ベーコンをかりかりになるまで焼き、油を落とします(今どきのコンビニで売っているベーコンは、薄くて油が少ないのでかりかりになりません。肉屋で買って下さい)。熱々の御飯に載せ、三つ葉のみじん切り、さらに冬なら塩昆布、夏なら山椒の実の佃煮をトッピングして、熱い番茶をたっぷりかけます。スタミナ食の割には意外にあっさりして美味しい。

我が家は博多の出身なので、祝い事には鯛茶漬でした。鯛1匹を魚屋でさばいて貰い、刺身にして、黒胡麻を擂って醤油に混ぜたたれに一晩漬け込みます。熱々の御飯の中に埋め込み、舌を焼くほど熱い番茶をかけて、鯛の身の色が変わるところから食べます。これが世界最高のご馳走だと、子供の頃から思い込んでいました。

最近は居酒屋でも鯛茶漬を出す店が増え、中にはぬるいだし汁で、似ても似つかないものを出す所もあるようです。博多では鯖茶漬もやるそうですが、東京では青魚の鮮度がいまいち怖くて出来ません。

國語國文特輯号

雑誌「國語國文」が3号合併で大谷雅夫さんの退職記念号を出しました(臨川書店)。全712頁、53本の論文が載っており、壮観です。これでも平成4年以降のOB全部ではないようで、まさに多士済々の京大ならでは、です。まえがき・あとがきがあっさりしているのもいい。

まずは大谷さんの御論「「歌はをさなかれ」の思想」から読みました。平安末期の歌人俊恵が主張した理想が、古義堂の「詩経」論にある「思無邪」を媒介として近世になって受け入れられ、国学者たちからは万葉集の歌の中に見いだされて、朱子学の倫理的文学観に対置されたこと、同じく平安末期の顕昭が唱えた「はかなく」よむという歌の理想も同様であったことを、縦横無尽に論じています。

専門外だからかも知れませんが、楽しく、のびのびと読めました。学生時代に中村幸彦論文を読んだ時の気分を思い出しました。京大へはかつて夏の盛りに集中講義に行き、あまりに暑いので、落成したばかりの冷房入り新校舎(未だ黒板にはビニールシートがかかっていた)を使わせて貰いました。ところが慣れていないので、週末にはみんな風邪気味になってしまいました。当時から研究室の管理は院生の当番になっていて、お昼には隠れ家風のしゃれたランチの店へ連れて行ってくれました。京都の裏町なので、もう一度行ってみようと思っても探し出せません。

あの頃の院生たちの論文を、これからゆっくり読もうと思います。京大の伝統で、みな漢文学と国文学の両分野に跨がったテーマを抱えていました。

流布本保元・平治物語

滝沢みかさんの「流布本『保元物語』『平治物語』における乱の認識と物語の改作」(「中世文学」62)を読みました。流布本保元物語は「秩序」を価値基準として「世を乱してはならない」と説き、流布本平治物語は「武士の振舞い方」を価値基準として「臣下がどう振舞うべきか」を説いている、そのように改作されてきた、というのが結論です。両者は同時期に影響関係を持って成立しており、教訓書を求める時代の要請に応えていながらも、それぞれ異なる意図をもつ作品に変貌したということのようです。

小さな論点でまとめずに大きな視野を持って出発しようとする姿勢に、まず好感が持てます。しかし軍記物語の諸本展開については、さらにひろい視野で多くの例を検討していくと、見えてくるものがあるでしょう。諸本の変化は必ずその作品のある部分の拡大強調であって、今まで無かった要素が突然顕現するわけではない。その作品の根幹といえるものは何か、を掴んだ上でトーンの変化を見極めていくことが肝要です。

軍記物語は元来、「王威とそれを支えるつわものの物語」であった、とかつて平治物語の変容を論じたことがあります(『軍記物語論究』若草書房 平成8)。流布本保元物語は制度内で、家族の一員として生きてゆく武士たちの教養書には格好のものであった、と論じたこともありました(『軍記物語原論』笠間書院 平成20)。そもそも保元物語には国争いのテーマが含まれており、平治物語は主君と臣下のあり方を規定する序から始まっています。ある時期から対のように扱われてきた両作品ですが、もともと異なる志向の物語(軍記物語の二大指向の代表)だと私は考えています。

ゆらぐ諸本群を抱える軍記物語を論じるには、ゆれながらも一貫している作品ごとの立脚点を見据えておかないと、一部の要素を過大評価したり、埋もれそうになっている本質を見落としたりすることがあります。遙かな旅程になりそうですが、健脚に期待しています。

清水の冠者

戸倉みづきさんの「国立国会図書館蔵『清水の冠者』攷―挿絵紙背を巡って-」(「汲古」71)を読みました。国会図書館蔵の奈良絵本「清水の冠者」中巻4オの紙背にある墨書は説経浄瑠璃「こ大ぶ」の一部であることを発見、このことから①「「こ大ぶ」の物語が奈良絵本の形で存在していたということ」、②「また両作品が同じ工房において扱われていたということ」を示すとして説経浄瑠璃「こ大ぶ」は謡曲「甘楽太夫」の略本とみられること、そして「清水冠者物語」も「新謡曲百番」に含まれる「清水冠者」の略本で、神宮文庫蔵絵入り刊本「清水冠者物語」は古浄瑠璃だったのではないかと類推しています。

限られた枚数の論文ですので、少々先を急いでおり、上記の①②の段階でもすでに確認したいことがあります。そもそも紙背とされる詞章と挿絵では、どちらが料紙の表にかかれているのでしょうか?清水冠者の名前は平家物語諸本によってゆれがあり、それだけを本文継承の証拠にするのは危険です。大きな展望を断定的に言い切っているので、分かりやすくはありますが、選評にもあるように、これから論証の間隙を埋める際にはもう少し疑り深くあって欲しい。

しかし古浄瑠璃と奈良絵本、絵入り刊本などを同じグループに属する文化として研究することには賛成です。中世の幸若と御伽草子なども詞章や場に共通性があり、ジャンル分けは後世の研究者である我々の都合に過ぎません。戸倉さんの提言は大いに可能性のあることです。

梔子の花

我が家の梔子が咲き始めました。20年前、宇都宮大学の同僚から頂いた枝6本を挿し木し、知人たちにも分けましたが、今は私の背丈より高くなり、ベランダの目隠しの高さに合わせて剪定しています。八重の純白の花が開いてゆく時は惚れ惚れします。青虫がつきやすいのですが、この頃は知らぬうちに雀が退治してくれているようです。

1輪めは剪って仏壇に上げます。疲れた晩に暗がりの中から漂ってくる芳香は、百薬にまさります。行きつけの肉屋の女将に届けると、実家にも大きな木があったのでなつかしい、と喜んでくれるので、2,3輪咲いたら剪って持って行くことにしています。花が萎れても、葉のつややかさがもったいなくてそのまま差しておくと、必ず発根するので苗が増え、嫁入り先を探すのに苦労しています。

渡哲也の歌う「梔子の花」という歌があります。「おまえのような 花だった」という歌詞は、じつは「おまえは、梔子の花のような女だった」と偲んでいるのに、比喩を逆転させているところが男の照れと自制を表しているのでしょう。

史実と人物造型

清水由美子さんの「『保元物語』の流動―平基盛の造型をめぐってー」(「中央大学文学部紀要」 119号)を読みました。基盛は早世した清盛の次男で、語り本平家物語では殆ど抹殺された存在ですが、保元物語では、保元元年7月6日、崇徳院に参上しようとする宇野親治を基盛が召し捕る記事が、乱の発端として置かれています(奈良絵本にもこの記事を独立させた「ちかはる」という作品があり、近世初期には注目される記事だったことが分かります)。

清水さんは保元物語諸本でこの記事の異同を確認した上で、未だ若武者の基盛が何故黒ずくめの合戦装束なのか(通常、黒ずくめは豪傑の造型なのです)に疑問を抱き、白のイメージで描かれる重盛に対して、基盛を従・陰の人物とする狙いがあったと読み解きました。あくまで物語である保元物語の創造する「真実」と、事実との間を探究する姿勢を打ち出した論文です。

清水さんは「『平家物語』における多田行綱―「裏切り者」と言われた男の素顔-」(国文学研究資料館研究成果報告「歴史叙述と文学」)でも、行綱の造型を追い、後白河院近衛家とに密接な関係を持った彼の行動は、九条家側の史料には必ずしも事実通りには書かれていないのではないかとしていますが、こちらはもっと入念な追跡が必要でしょう。『愚管抄』の記事にも風説が紛れ込んでいる、とするなら重大な提言です。『愚管抄』そのものの研究、殊に本文批判から始めて欲しい。畢生の課題になるかもしれませんが。