由布院

平和な老後を別府で送っている同い年の友人から、写真添付のメールが来ました。車で由布院まで出かけ、ティータイムを楽しんだそうです。

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亀の井別荘庭の桜

父祖の地が博多である我が家では、別府や由布院は遊びに行く所で、暮らす土地ではないのですが、由布院はいちど行ってみたいと思っていた場所。従兄の一家からはよく一緒に行こうと誘われていたのに、当時は眼前の俗事に逐われていて、とうとう叶いませんでした。今では映画祭その他で世界的に有名になりましたが、もともと起伏の多い、湯治場的な所でした。

例年なら、朝夕の天気予報でもニュースでも、桜前線を追って中継映像が流されるのに、今年は不安な暗い情報ばかりです。4月上旬には旧友と新宿御苑で花見をする約束をしていたのですが、駄目になってしまいました。せめて御苑の事務所が何か発信していないかと、公式サイトを開けてみました。3日から、園内の花々の映像をアップしているそうです。https://fng.or.jp/shinjuku/2020/04/03/20200403-01/ 

ここは八重桜が有名。いろいろな種類の八重桜を(今年は静かに観られるはずでした)楽しみにしていたのに。

もしも来春、この感染症流行が鎮静化していたら、内閣府都知事の英断で、花盛りの1週間、無料開放してくださいね。特別招待客たちには遠慮して貰って。

次世代に伝えたい古典

武蔵野書院から『次世代に伝えたい新しい古典』(井上次夫・高木史人・東原伸明・山下太郎編)という本が出ました。『古事記』から長塚節まで、18人の執筆者が20枚前後の分量で、各作品の読みどころを、最新の視点で照射しています。

読者対象は中等教育の教員や卒論目前の学生が主でしょうか。かつて『ともに読む古典ー中世文学編』(笠間書院 2017)を出した際、姉妹編がどんどん出てくれるといいなと思っていたのですが、さらに範囲の広い企画のようです。

蔦尾和宏さんの「『古事談』ー抄録の文芸ー」は、益田勝実さん初め先学の読みを踏まえながら、小さな改変を通じて自己の主張を打ち出す説話文学の方法と、11世紀に生きた一徹な男の風貌とを浮き彫りにしています。かつて私も『古事談』を教材にし、現代人を手こずらせる、そのわかりにくさ(寡黙)こそがこの作品の魅力でもあると思いました。

伊達舞さんの「『とりかへばや物語』」と、津島知明さんの「『枕草子』「したり顔」の呪縛を乗り越えて」も、旧来の固定観念を打破して作品の魅力を衝いた好論。前者は当代風のLGBTQに触れながら、しかしこの物語では「家を背負う」という要素が重要であることを指摘。私は「人は他者との関係によって自らの役割を認知した時、初めて自立する」が本作品のテーマだと読んでいます。塩村耕さん「新しい古典としての西鶴」では、近世は咄上手の時代なんだなあと思いました。本宮洋幸さんの「『うつほ物語』の軌跡」では、半世紀前(未だ本文も確定していなかった時期です)、この長編物語に惹かれながらも立ち往生した謎の重層が、ぱらりと解けた気がしました。

一つ、版元へ注文ー各項目の長さも分かりやすさもちょうどよく、手に持ったまま読みたい(電車の中や陽だまりの長椅子で)本なのに、紙が良すぎて重すぎます。

源平の人々に出会う旅 第39回「摂津・逆櫓」

 元暦2(1185)年2月3日、範頼・義経軍は、屋島高松市)に拠点を置く平家を追討する為に京都を出発しました。

【渡辺の津】
 範頼軍は神崎の津(尼崎市)、義経軍は渡辺の津(大阪市)から、船で屋島に向かおうとしますが、激しい暴風雨に足止めされます。渡辺の津は、現在の堂島川土佐堀川の中州にある中之島周辺で、渡辺橋が架かっています。

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【逆櫓の松】
 この時、梶原景時は、義経に船を自由に動かせるよう逆櫓を取り付けることを進言します。しかし、猪突猛進型の義経は、景時の意見を却下したため、激しい言い争いとなり、同士討ち寸前になります。結局、義経は暴風の中、強引に船を出して屋島に向かいますが、残った景時は、そのことを頼朝に讒訴してしまいます。

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義経・弁慶隠家跡(大物主神社)】
 範頼軍が向かった神崎の近くには、大物(だいもつ)の浦があります。壇の浦合戦後、頼朝と決別した義経は、大物から西国へ向かおうとして船が難破してしまいます。この時、義経主従は、大物主神社の隣りに宿を取り、無事平安を祈ったという伝説があります。

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〈交通〉
渡辺橋・逆櫓の松…京阪線渡辺橋駅・JR線福島駅
大物主神社…阪神本線大物駅
                 (伊藤悦子)

配る

19年前の9月にアメリカで大事件があった時、当時人気のあった外務大臣に報道陣が追いすがり、何か救援を?と訊いたことがありました。外相は振り返り、元気よく、ええ、ヘルメットとかね、と答えた(彼女の父親は、1級建築士の資格を持つ政治家だった)ので、私は仰天しました。

こんなことを思い出したのは、総理のマスク2枚配布宣言(ネット上ではアベノマスクと呼ばれている)故です。我が家ではマスクが入手出来ないので、一瞬、よかった!という気になりそうでしたが、よく考えてみると、1世帯に2枚、布製、全国一律、財源は税金(ネット情報によれば、受注したのは山口の業者)だって???

もう我慢できない。3つ提言をします。第一に、COVID19の脅威が収まる状態をどうイメージしているのか、明言して欲しい(期限は1年後のつもりでしょうね、五輪の開催時期からして。可能かどうかはともかく)。第二に今、及び(短期間の)今後、必要な医療器機その他を緊急度と総量で示し、生産・配布を推進して欲しい。第三に今回の感染症対策の経緯や統計数値を正しく記録し、後世に伝えて欲しい。

素人の私の考えでは、症状緩和に有効な既存薬の処方ができるようになり、感染者の多数に免疫ができる(果たしてできるのかどうかも知らないのですが)時期が、とりあえずの目標でしょうか。それまではなるべく感染を広げないで、と呼びかけるべきで、むやみに、人類挙げての戦いなどという空しい言葉を使うべきでない。医療用のマスクは医療関係者に、それ以外は訪問介護士や福祉施設などに配るのが適切でしょう。

緊急事態宣言を求める人もいるようですが、現状以上に何が出来るのかが、はっきりしません。指導者が限界を明確に認識していないと、後日の弊害は大きくなるばかりです。

桜送り

小糠雨が止まないので、傘を差して長泉寺の境内へ出かけました。今年は変な年で、去年区の樹木医が手入れした山桜がまず咲き、その後染井吉野と八重桜が同時に咲いて満開になりました。今夜は風雨だそうで、もう見納めでしょう。鵯がつつき落とした八重桜の花を、鳩が集まってまたつついています。20輪ほど拾って帰りました。半分は益子の黒い鉢に入れて仏壇に上げ、残りはスワロフスキーのグラスに詰めて、洗面台に置きました。ピンクの生クリームのようにふんわり盛り上がり、ほのかな香りもします。

この時季、大手のスーパーでは、桜花の塩漬を新旧商品入れ替えで安売りするので、例年それを買ってきて、夏のこまめ水に使うのですが、コロナ騒ぎで出かけられません。御近所や友人、教え子からいろいろ差し入れを頂いたので、まず生姜と人参を調理することにしました。どちらも昔と違って、皮が薄くなったのに吃驚、殆ど剝かなくても食べられそうです。生姜は切り分け、千切りにして冷凍し、少しずつ使います。今夏のこまめ水は、これを使って開発してみようと考えました。

人参は、どちらかというと苦手な野菜です。薄甘くてアクの強い個性をどう消すか。ちょっと考えて、ころころに切り、だし(やや少なめ)と味醂(やや多め)で煮てみました。思いついて、干したクランベリーを多めに投入。出来上がりはー美味でございます!ちょっとずつ、箸休めのように添えると食膳が華やぎます。煮汁を一晩寝かして、柚子の絞り汁を落としたら、濃厚な飲み物になりました。

庭先では思いがけない芽生えが2本。1本は多分、山吹ですが、もう1本は未知の木のようです。暫く育ててみることにしました。今夜は益子の鉢を食卓に降ろして眺めながら、徳島土産に頂いた銘酒で、今年の花を送ります。

コロナな日々2nd st.

ここ数日、夕方スーパーへ行くと、狭い店内を男女2人連れの買い物客が塞いで、買いたい物の棚の前にも行けないほど混雑する(こういう時に、身体の大きな男を連れて狭い店内をぶらぶらしないで欲しい。荷物持ち要員で同伴するなら、店外で待たせておけ!)ので、今日は午後行ってみました。今度は老人で混雑しています。お目当ての物をさっさと買うのでなく、買い置きしておく物を物色している風でした。ちょうど年の瀬の雰囲気に似ています。

これだけスーパーでの買い物が増えたということは、それだけ外食が減ったということでしょうか。飲食店は堪らないでしょうね。手作りマスクを頂いたので、中に入れるガーゼを探し歩いたのですが、薬局でも量販店でも断られました。三角巾を勧められましたが、口に当てるのに消毒していない布は不安です。相変わらずトイレットペーパーもない。民衆が愚かで無用のパニックを引き起こしている、というだけでしょうか。民衆からすれば、突然の困惑状態に追い込まれた経験が、このところ多すぎたのでは。

私がいま知りたい情報は、例えば次のようなことですーCOVID19は水中ではどのくらい生存できるのでしょうか(プラスチックやステンレス上の実験結果は出ているらしい)。日本ではPCR検査は、主に発症後または発症者の周辺でしか行われていないようですが、感染者の比率は低いと言えるのでしょうか。もう1隻のクルーズ船を受け入れたカンボジアでは、何故感染者が増えていないのでしょうか。

つまり、マニュアル化された予防法や自粛要請を流すだけでなく、各人が自分の事情に合った対応をするのに役立つ情報を、どしどし公開して欲しい。「不要不急」の基準を行政に求めたりせず、各自がそれ相応の行動指針を持つために。

定家の外題

佐々木孝浩さんの「藤原定家が記した冊子本の外題の位置について」(「斯道文庫論集」54)を読みました。佐々木さんは、写本の体裁(綴じ方、大きさ、書き出し位置、外題等々)と、その本の内容(ジャンル)とは関係がある、書写を専門にした人たちの間では典型、規範があったとして、その実例を集め、検討する作業を続けています。外題の位置について言えば、鎌倉時代の書写専門家の間では、「歌書は左肩、物語は中央」とされていたことが伝えられていますが、本論文では、藤原定家が書写した本について、いちいち詳しく考察しています。

きっかけは、定家筆の『更級日記』の外題(表紙に書かれた書物のタイトルのこと。本の中、本文・目録の冒頭や序文の最初に書かれた書名は、内題と呼ぶ)の位置が、中央よりやや左寄りであるのに気づいたことだったそうです。周知のように、藤原定家の業績は実作歌人として、勅撰集の2度の編者として、和歌に関する理論家としてのみならず、古典籍の書写・校訂を行ったことが現代の我々にとっても大きな意味を持っています。定家が書写した書物は、時代を経て改装されたものも少なくありませんが、京都の冷泉家に保管されていたものの中には原型を留めているものが多く、貴重な資料となっています。

本論文によれば、私家集(個人歌集)の外題は平安時代には表紙中央にあることが多かったが、鎌倉時代が進むにつれて左肩にあるようになる、格の高い勅撰集は、元来巻子本の形態を意識して冊子本でも左肩に外題があるが、私家集の社会的な地位が上がるのに伴って外題は中央から左肩へと移っていった、仮名日記や歌物語は、歌集と物語(当時は仮名文学の中で最も地位が低かった)との間に位置づけられ、私家集は次第に歌集の中に分類されるようになっていったのだ、定家の書いた外題の位置はその過渡期にあった、ということになります。納得できる結論です。