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源平闘諍録

早川厚一さんの「源平闘諍録全釈一二」(「名古屋学院大学論集」言語・文化篇28:2)を読みました。源平闘諍録の巻一上「仁安三年戊子三月二十日・・・」から王昭君説話の終わりまで、講談社学術文庫本『源平闘諍録』でいうと上巻p145~159の注釈です。早川さんはこつこつとこの作業を続けてこられ、ほかに四部合戦状本や源平盛衰記も異なるメンバーと共に全注釈を続けておられます。私の生あるうち、いやご本人の生あるうちに完結する見込みさえあやしいのですが、基礎的な作業として貴重なものです。

源平闘諍録は千葉一族を中心とする関東武士のために編集された平家物語と考えられ、変体漢文で書かれており、1337年の本奥書を持っています。読み本系諸本の一つですが巻立は現存諸本の6の倍数とは異なる仕立てだったらしく、しかも5冊しか残っていません。しばしば独自記事、もしくは固有名詞へのこだわり等、独特の改編が見られます。私は、もっと大部な平家物語からの略述本で、巻により略述や改編の方針が異なっていると考えています。一部に源平盛衰記と共通する性格もほの見えるのですが、長門切を補助線として考えると、その点にも説明がつくかもしれません。

これから、早川さんとそのグループの共同作業による「源平盛衰記全釈12」(「名古屋学院大学論集」人文・自然科学篇53:2)を、注釈をチェックしながら読む予定です。こちらは巻4(中世の文学『源平盛衰記(一)』ではp124~136)に当たります。

怪我の高名

先週末、煉瓦の舗道で躓き転倒して、したたかに膝を打ちました。皮下出血が見えなかったのでそのまま歩いて帰り、週明けに医者にかかったら、関節内に出血が溜まっている、靱帯損傷全治3週間と言われました。家の中では花魁のように外八文字で歩いていますが、外出はままならず。さあどうしようと途方に暮れましたが、冷静になって考えてみると、どうしても今やらねばならないことは、そんなにはない。このところ、いわば急坂をギアいっぱいで駈け登ろうとして、パズルのように日程を組み、これを今やっておかないと後がつかえる、先延ばしできない、と前のめりになっていたことに気がつきました―反省。

何も説明しない医者なので帰宅後ネットで調べたら、3日間、やってはいけないことばかりやったことが判明。とりあえず冷やしたまではよかったが、終日腰掛けて仕事をし、晩酌し、風呂に入って温め、揉みさすった・・・

けっきょくは自然治癒を待つしかないようで、鎮痛剤と胃薬と湿布薬を処方されました。鎮痛剤は腰痛で経験済み、胃に悪いことは分かっているので断り(中世の武士はボルタレンなんかなしで矢傷を治したはず)、ロキソニンの湿布を膝に貼ってサポーターを巻いているのですが、頭痛やら蕁麻疹やらの兆候が出て、人に聞いたら、今どきの湿布薬は速効の劇薬なのだそうで、子供の頃、親が何やらメリケン粉に混ぜて包帯に塗りたくってくれたものと同じように考えたら大間違い、なのだそうです。

すこしずつ快方に向かっている気がしますが、いい勉強をしました。かかりつけの医者を選ぶのには、直近よりもタクシーで乗り付けられるかどうかを考えた方がいいかも。要介護になった時、家の中のどこに手摺りをつけるべきか。そして、日頃医薬に頼らずにいると薬が効きすぎる(医者の言うとおりに鎮痛剤を服用していたら大変だった)。

こういうのを怪我の高名というのでしょうか。それにしても、転んだ時に通りかかった小さな男の子が、杖を拾ってくれ、心配そうに顔を覗き込みながら渡してくれた、あの眼を思い出すと、胸キュン、となります。

 

鬼瓦

樋口一葉が通ったという風呂屋「菊水湯」は3年前に廃業、代替わりの後継者がいなかったらしい。銭湯の経営はけっこう重労働なのでしょう。跡地には低層ながらマンションが建ち、屋根の鬼瓦だけが塀際に飾ってあります。お向かいの菊坂には一葉が通った質屋があり、土曜の昼間に一般公開されています。一葉が使ったといわれる井戸は個人の住宅の傍にあるため、観光客がうるさいと案内板が外されましたが、今も区指定の災害用井戸になっています。

行きつけの医院がこの近くなので、転倒して怪我をし診察を待つ間、区内の銭湯の噂をしました。大黒湯は未だやってる、富士の湯は閉めた等々。そう言う私は、大学2年で級友9人と奥の細道一周旅行をした時、初めて銭湯を体験。それまでは自宅の風呂に入ったことしかなかったので、公衆浴場の作法を級友の1人から教えられ、お湯は飛ばさずにかぶれ、と叱られました。

そう言えば老舗の和菓子屋藤村も、永らく仕出しだけはやっていたようですが、とうとう廃業しました。院生時代に同期4人で連れ立って行き、田舎汁粉、都汁粉、田舎善哉、都善哉、どう違うのか食べ比べしたものでした。

気になる語

若い世代の提出書類を読んでいて、気になる言葉があります。ひもとくーどういう意味で使いたいのか?やたらに目立つのです。辞書を引くと、蕾がほころぶ、とか、子供用の着物から大人の帯を締めるようになる、等々の意味も出て来ますが、元来は書物を開いて参照する、という意味でしょう。語感としては、ゆっくり読む、頁をめくる、調べる、といったニュアンスを持っていると思います。ワープロ機能の漢字変換では「紐解く」と出てしまいますが、れっきとした「繙く」という字もあります。

何となくかっこよさそうだから一段難しい語句を使う、という見栄はあぶないと思います。「かんがみる」という語も同様に、微妙にずれて使われる例が多い。「かえりみる」と混同しているのでは、と疑うときもあります。

中年以上の人でも「お申し越し」という語句を尊敬語として使っている例によく出くわします。ある集団で、「お手数ながら」と言うべき場合に、しきりに「御足労をおかけして」と恐縮されるので、困惑し続けた経験がありました。私自身も何かとんでもない誤用をやらかしているかもしれないのですが、気になる語の誤用を、上手に教えてあげる術があるといいなと思います。

 

天南星

植物図鑑でのみ、または文学作品でのみ知っていた植物の実物に出会った時の感動は、忘れがたいものです。ああ、これがあの・・か、としばし佇んで想いを廻らせます。

中学校の塀際に見慣れない草の花が咲くのを3年前に発見、その後気をつけて見てきましたが、今年も咲き始めました。三つ葉で、緑色の靭形の花が蛇の鎌首のように見えます。全体に小ぶりな草ですが、今年は春先の除草が行き届いて、よく見えます。蝮草だと思いこんでいましたが、ネットの画像を見ても葉の形、花の色、草丈、ぴったり一致する種がない。天南星の仲間であることは確実です。牧野植物図鑑は去年売ってしまったし・・・山野草の一種だと思うのですが、それにしてはどうしてこんな所へ?目の前は地下鉄の駅です。誰かが植えたか、捨てたのでしょうか?周辺には自生していません。

半世紀前のお茶の水女子大学構内には、二輪草の群落があって、見つけた時は興奮しました。もう今はないでしょう、綺麗に整備されてしまいましたから。

子供の頃読んだアメリカの小説に、近くの林へ家族ではしばみの実を採りに行く場面が出ていました。房になるらしい、食べられるらしい、どんな植物だろう?―ずっと気になっていたのですが、先日、長野のホテルの売店で「はしばみ」という名のナッツを売っているのを発見。殻つき、櫟(くぬぎ)の団栗みたいな実です。早速買って、産地表記を見たら「アメリカ産ヘーゼルナッツ」とあり、なあんだ、ということになりました。

旧同僚

夕方、とつぜん電話がかかってきて、鳥取で同僚だった菅原、と名乗られました。一瞬、間を置いて、思い出しました。三十数年前、助教授同士で研究室が指し向かいだった国語教育の菅原稔さんです。その後鳴門教育大、岡山大と異動して定年になった由(時折噂を小耳にはさんではいました)、今は社会福祉系の大学で1コマ教えているとのことでした。

「リポート笠間」62号を見て版元に電話番号を問い合わせた、文章を見ると研究一筋の昔とは変わったようだ、と言われて恐縮しました。変わったわけではない、教育系の大学で教えた歳月が長くなったので、義務を感じて『ともに読む古典』を出したのだと答えましたが、思い込みの速さは当時のままだなあと感無量でした。

初めての土地、初めての教育学部へ赴任して西も東も判らぬ時に、大変親切にして貰いました。乾児(こぶん)にはならなかったので、むつかしい奴だと思われた(後年、岡山で同僚となった私の後輩に、そう洩らしたらしい)ようでしたが・・・鳥取では、いろいろありましたねえ、という話をしました。

退役して自由になると、旧◯◯という関係のよけいな部分が削ぎ落とされて、つきあい初めの頃のようにすらりと挨拶が交わせることが貴重です。これも人生の締めくくりの一階梯、と言ったら大袈裟でしょうか。

平曲の「木曾最期」

鈴木孝庸さんの「平曲「木曾最期」の<語り>―演誦の場から―」(新潟大学「人文科学研究」140号)を読みました。鈴木さん自身が平曲を語る立場から、「木曾最期」の曲節に特殊な傾向が見られることに気づき、詞章の内容との関係を考察した論文です。

平曲ではこの章段中、巴記事は口説(くどき)や素声(しらごえ)で語られるのに対し、義仲最後の合戦から末尾までは拾(ひろい)を中心として語られるので、巴よりも兼平に重きが置かれていることをまず指摘し、通常、拾は大廻しコハリ(鈴木論文では「昂揚墨譜」と呼ぶ)で締めくくられるのに、「木曾最期」ではそうなっていないことに注目しています。義仲が兼平と共に次々に新手の敵とぶつかり、ついに主従5騎になる部分は拾から中音へ、つまり勇壮さから歌うような調子へと変化し、兼平の奮戦は拾の後が走三重(はしりさんじゅう)で彩られ、義仲の死を口説と素声で語った後、兼平の死が拾で語られて定型の「昂揚墨譜」で締めくくられます。

この節付から、平曲がこの章段(一句)をどのように構成しようとしたかを読み取り、それは「平家正節」以前の「平家吟譜』などの譜本にも共通することを指摘しています。

音曲としての平家と、詞章の文学的内容との関係は、簡単に割り切れない問題で、演奏者や研究者によって意見が分かれるところです。私たちとしては譜本以前の語りと詞章との関係が気になるのですが、まずは証跡のあるところから考察していくべきでしょう。「木曾最期」の読みにも関わる重要な指摘だと思いました。