薬玉と鳩

近所の小学校で運動会の応援練習が始まりました。以前は我が家からも運動場が見えたのですが、間にマンションが建って見えなくなりました。

中学の時、競技だけでなく応援のアイディアも加点されたので、チームごとに知恵を絞りました。ある年、花形競技のリレーのスタートで薬玉を割って鳩を出そう、ということになりました。女子は笊を貼り合わせて薬玉を作り、男子3人が護国寺へ鳩を盗みに行きました。なかなか帰って来ない。どうやら1羽、スポーツバッグに入れて戻ってきました。ベンチに座って餌を撒き、鳩が集まったところで少しずつベンチを動かして近づく。ところが門衛が見ていてベンチを動かすなと注意されるので、また初めからやり直すーその繰り返しで時間がかかったのだそうです。

翌る日、いよいよリレーの号砲が鳴り、薬玉が割れました。鳩は、ぽたりと地面に落ち、飛びません。追い立てても、きょときょとと歩き回るだけ。その間にリレーは終わりました。一晩スポーツバッグに閉じ込められて飲まず食わず、しかも急に明るい所へ出た鳥目なのですから、今思えば無理もありません。しばらくして鳩は無事に護国寺の方へ飛んで行きました。

当時の競技には長い名前のついたものがあって、例えば「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」というもの。片手に栗の毬、片手に泥鰌を掴んで走る徒競走です。優等生たちが苦戦する中で、腕白男子がわざと泥鰌を地面に落とし、土をまぶしてから掴み直したのには感心しました。

物語の変貌

三角洋一さんの論文「改作物語の和歌」(『物語の変貌』若草書房 1996)を読み直しました。平家物語の諸本をみていくと、何故か和歌には本文異同が多い。若い頃は、一字一句を重んじる和歌の詞がどうしてこんなに動くのだろう、と不思議に思いました。口承によるからだという説明もありましたが、散文の中に填め込まれた和歌が口承というのも腑に落ちず、出典に勅撰集などが挙げられる歌も揺れ動くので、疑問のまま放置してありました。

三角さんは改作物語の方から、平家物語御伽草子と共通する(とみなせる)和歌をとりあげ、その先後や物語に導入された階梯を探ろうとしています。はっきりした証跡のあることではないので、かなり大胆な推定を繰り返しているように見えますが、ひとまず仮説を立てておいて、順次調整していく所存だったのでしょう。

この論文の初出は昭和60年3月。私も覚一本平家物語の和歌表現について考察したりしていました。お互いに自分のことでめいっぱいだった時期です。書いたものはお互いずっと交換してきたのですが、もっと相手の領域に踏み込んで、共通の関心事について議論しておけばよかった、と悔まれます―時は取り戻せません。

私は今は、口承とは言わないまでも、名歌は記憶に頼って書き留められたり、あるいは名歌であるが故に一部手直しして利用されたりするのかもしれない、と考えています。当時の三角さんの予測から、あまりかけ離れていないかもしれません。

声と文字

大隅和雄さんの『中世の声と文字―親鸞の手紙と平家物語-』(集英社新書)を読みました。大隅さんとはかつて日文協の太平記輪読会(本ブログ「昭和一桁のつぶやき」参照)で御一緒しましたが、定年後文学関係の学会にはお出かけにならないようで、20年以上ご無沙汰しています。

まえがきには、学生時代に石母田正『中世的世界の形成』を読破した時の衝撃が述べられています。本書は親鸞の著述、中世の手紙、世の移り行きを書く、平家の物語、の4章から成り、あとがきに梁塵秘抄について触れていますが、やはり大隅さんの真面目(しんめんもく)は愚管抄を扱った第3章でしょう。愚管抄の読みにくさは抽象名詞がしばしば複数の意味で使われることにある(鍵語の「道理」は特に)と思うので、私の授業では、大隅さんが以前書かれた解説書で読むことを勧めてきました。

平家物語を扱った第3,4章は、軍記物語専門の私からは異議申し立てしたい箇所もありますが、概ね妥当な記述になっています。あとがきに平家物語は「行長と生仏の合作であった」とし、生仏が中途失明者であったかどうかにより、平家物語の詞章を「声として憶えるか、文字を思い浮かべながら憶えるのかという差が生れ、両者の間には、大きな違いがあったのではないか」と述べていることに注目されます。

蛇足を一つ。p58,為房の妻の手紙の一節、「やうやうひかずおほうなしつると思たまふるになむ」の部分の現代語訳は、「やっと日数を多く重ねたと思っておりますので」では。「たまふる」は謙譲の補助動詞。逢いたいと思いながら我慢してきた、という母の気持ちではないでしょうか。

大隅さんの温顔を思い出しながら、そんなあれこれを、御一緒にお話ししたかったなあ、と思います。

 

眼科検診

御茶ノ水駅近くの大学病院へ眼科検診に行きました。このところあちこちに不具合が出て、眼にも光り物が出たりしたからです。この病院は患者の権利を謳っており、患者の話をよく聴くことを宣言しています。ほぼ2時間で検査も診察も終わりました。感心するのは、待ちくたびれる頃になると検査やアンケートなど、何かしらかまってくれることです。人の心理をよく読んでいるなと思いました。

ここではもの静かな医師に、トシの割にきれいな眼だと言われ、眼鏡がもう合わなくなっているのではないかという診断でした。本人は重大な病気ではないかと発見を焦る一心ですが、周辺から消去法でつぶしていくしかないのでしょう。

検査のために瞳孔が開きかかった眼でぼんやり読んだ新聞に、安藤忠雄の講演録が載っていました。私よりも2歳年長ですが、胆嚢、胆管、十二指膓、膵臓脾臓を癌手術で全摘、もう20年は仕事をする所存だと言っていました。名医にかかったのでしょうが、そういう例もあると思えば励みになります。

秋の本屋

消化器内科受診の帰りに本屋へ寄って、エンディングノートを買いました。新書のコーナーを見渡して、南北朝史の研究が進んでいることを知り、2冊ばかり購入してみました。もう、来年の手帳のコーナーも出来ていましたが、見ずに店を出ました。

町には秋祭りの提灯が掛け渡されています。去年の今頃は、友人の食道手術の心配をしていたのでしたが・・・友人はぶじ生還、元気だった従妹が胃癌で亡くなりました。

良医

どうも胃腸の具合がよくないところへ、区の無料胃癌内視鏡検査の通知が来たので、近くの消化器内科専門の医院で初めて受診することにしました。先週、腹部CTと腫瘍マーカー検査を受けてあったので、まずその結果説明、愛想のいい副院長でした。

70代まで無理を重ねながら働いてきた人間ならば、まっさらの解剖学モデルのような肉体を持ってはいません。写真や数値を見ながらあれこれ指摘される度に、それはこういう事情があって、という説明(口答え)をすることになります。初診だから医者の方も耳を傾けて聴くかと思ったのですが、面倒なことには関わりたくないらしい。

とりあえず下剤で排泄できているからいいじゃないかと言うので、それでは問題の解決にならない、下剤をかけて仕事に出かけるわけにはいかない、と口答えしたら、もう高齢だから消化器の問題は解決が難しい、と笑顔で仰言る。じつは、ボクはららら♪で暮らしたい、と言っているように見え、では様子を見て、と早々に辞去しました。

かかりつけ医を決めるようにと、この頃言われていますが、良医を見つけるのは至難の業です。今は、大きな病院は科が細分化され、かかる前におよその病因の見当がついていないと時間も体力もロスが大きく、病院側の態度も邪険になりがちです。腕も説明能力も、そして最期を診る覚悟もあって、緊急時に診て貰える医者を見つけておくことができるか、今や良医と出遭う(発見する)能力が患者側に要求されています。

鼻濁音

高校時代の部活は放送部でした。アナウンスメントの練習ではアクセントと鼻濁音が私にとっては課題でした、我が家は福岡県出身なので。アクセントは、東京でもしだいに一律、平板型に変わりつつある、だから未知の単語はとりあえず平板型で発音しておけばいい、と習ったのですが、現在、外来語がしだいに日本語化していく過程でアクセントが平板化する現象をみて、納得しています。

第二音以下と助詞は原則鼻濁音になる、ということは初めて知り、ngという発音を一心に練習して習慣づけました。後日、これは東国地方(特に江戸)の発音の特徴で、日本語全般の規範とはいえないが、マイクに乗せたときにきれいに聞こえるので、アナウンサーには必須だと知ったのです。

しかしこの頃の歌手や司会者は、全く鼻濁音を気にしていないようです。殊にわざと外国人風に訛った発音で歌う歌手(私には不愉快なのですが)は、ガギグゲゴを強調するかのように際立たせます。先日、山口百恵の息子が歌番で「さよならの向こう側」を歌った時、司会者から、お母さんからの指導があったかと訊かれて、「あの頃の歌は鼻濁音に気をつけた方がいいと言われた」と答えていました。「あの頃の」という限定に、元プロの意気を感じたのですが、同席していた大半の人が鼻濁音を知りませんでした。殊に大衆演劇女形だった男優が初耳だと言ったのには吃驚しましたが、彼の口跡にはかすかに東北訛りがあり、調べてみたところ福島出身なので、自分では意識していなかっただけなのでしょう。

それにしても三浦祐太朗の「さよならの向こう側」は、いい歌いっぷりでした。百恵の面影があり、しかし彼自身の優しさと、歌を大事にする気持ちがあふれていました。同席した森口博子始め女性陣が泣いていたのは、歌に感動するとともに、歌手としてのみならず母親としてもいい仕事をした同性への、オマージュだったかもしれません。