声と文字

大隅和雄さんの『中世の声と文字―親鸞の手紙と平家物語-』(集英社新書)を読みました。大隅さんとはかつて日文協の太平記輪読会(本ブログ「昭和一桁のつぶやき」参照)で御一緒しましたが、定年後文学関係の学会にはお出かけにならないようで、20年以上ご無沙汰しています。

まえがきには、学生時代に石母田正『中世的世界の形成』を読破した時の衝撃が述べられています。本書は親鸞の著述、中世の手紙、世の移り行きを書く、平家の物語、の4章から成り、あとがきに梁塵秘抄について触れていますが、やはり大隅さんの真面目(しんめんもく)は愚管抄を扱った第3章でしょう。愚管抄の読みにくさは抽象名詞がしばしば複数の意味で使われることにある(鍵語の「道理」は特に)と思うので、私の授業では、大隅さんが以前書かれた解説書で読むことを勧めてきました。

平家物語を扱った第3,4章は、軍記物語専門の私からは異議申し立てしたい箇所もありますが、概ね妥当な記述になっています。あとがきに平家物語は「行長と生仏の合作であった」とし、生仏が中途失明者であったかどうかにより、平家物語の詞章を「声として憶えるか、文字を思い浮かべながら憶えるのかという差が生れ、両者の間には、大きな違いがあったのではないか」と述べていることに注目されます。

蛇足を一つ。p58,為房の妻の手紙の一節、「やうやうひかずおほうなしつると思たまふるになむ」の部分の現代語訳は、「やっと日数を多く重ねたと思っておりますので」では。「たまふる」は謙譲の補助動詞。逢いたいと思いながら我慢してきた、という母の気持ちではないでしょうか。

大隅さんの温顔を思い出しながら、そんなあれこれを、御一緒にお話ししたかったなあ、と思います。

 

眼科検診

御茶ノ水駅近くの大学病院へ眼科検診に行きました。このところあちこちに不具合が出て、眼にも光り物が出たりしたからです。この病院は患者の権利を謳っており、患者の話をよく聴くことを宣言しています。ほぼ2時間で検査も診察も終わりました。感心するのは、待ちくたびれる頃になると検査やアンケートなど、何かしらかまってくれることです。人の心理をよく読んでいるなと思いました。

ここではもの静かな医師に、トシの割にきれいな眼だと言われ、眼鏡がもう合わなくなっているのではないかという診断でした。本人は重大な病気ではないかと発見を焦る一心ですが、周辺から消去法でつぶしていくしかないのでしょう。

検査のために瞳孔が開きかかった眼でぼんやり読んだ新聞に、安藤忠雄の講演録が載っていました。私よりも2歳年長ですが、胆嚢、胆管、十二指膓、膵臓脾臓を癌手術で全摘、もう20年は仕事をする所存だと言っていました。名医にかかったのでしょうが、そういう例もあると思えば励みになります。

秋の本屋

消化器内科受診の帰りに本屋へ寄って、エンディングノートを買いました。新書のコーナーを見渡して、南北朝史の研究が進んでいることを知り、2冊ばかり購入してみました。もう、来年の手帳のコーナーも出来ていましたが、見ずに店を出ました。

町には秋祭りの提灯が掛け渡されています。去年の今頃は、友人の食道手術の心配をしていたのでしたが・・・友人はぶじ生還、元気だった従妹が胃癌で亡くなりました。

良医

どうも胃腸の具合がよくないところへ、区の無料胃癌内視鏡検査の通知が来たので、近くの消化器内科専門の医院で初めて受診することにしました。先週、腹部CTと腫瘍マーカー検査を受けてあったので、まずその結果説明、愛想のいい副院長でした。

70代まで無理を重ねながら働いてきた人間ならば、まっさらの解剖学モデルのような肉体を持ってはいません。写真や数値を見ながらあれこれ指摘される度に、それはこういう事情があって、という説明(口答え)をすることになります。初診だから医者の方も耳を傾けて聴くかと思ったのですが、面倒なことには関わりたくないらしい。

とりあえず下剤で排泄できているからいいじゃないかと言うので、それでは問題の解決にならない、下剤をかけて仕事に出かけるわけにはいかない、と口答えしたら、もう高齢だから消化器の問題は解決が難しい、と笑顔で仰言る。じつは、ボクはららら♪で暮らしたい、と言っているように見え、では様子を見て、と早々に辞去しました。

かかりつけ医を決めるようにと、この頃言われていますが、良医を見つけるのは至難の業です。今は、大きな病院は科が細分化され、かかる前におよその病因の見当がついていないと時間も体力もロスが大きく、病院側の態度も邪険になりがちです。腕も説明能力も、そして最期を診る覚悟もあって、緊急時に診て貰える医者を見つけておくことができるか、今や良医と出遭う(発見する)能力が患者側に要求されています。

鼻濁音

高校時代の部活は放送部でした。アナウンスメントの練習ではアクセントと鼻濁音が私にとっては課題でした、我が家は福岡県出身なので。アクセントは、東京でもしだいに一律、平板型に変わりつつある、だから未知の単語はとりあえず平板型で発音しておけばいい、と習ったのですが、現在、外来語がしだいに日本語化していく過程でアクセントが平板化する現象をみて、納得しています。

第二音以下と助詞は原則鼻濁音になる、ということは初めて知り、ngという発音を一心に練習して習慣づけました。後日、これは東国地方(特に江戸)の発音の特徴で、日本語全般の規範とはいえないが、マイクに乗せたときにきれいに聞こえるので、アナウンサーには必須だと知ったのです。

しかしこの頃の歌手や司会者は、全く鼻濁音を気にしていないようです。殊にわざと外国人風に訛った発音で歌う歌手(私には不愉快なのですが)は、ガギグゲゴを強調するかのように際立たせます。先日、山口百恵の息子が歌番で「さよならの向こう側」を歌った時、司会者から、お母さんからの指導があったかと訊かれて、「あの頃の歌は鼻濁音に気をつけた方がいいと言われた」と答えていました。「あの頃の」という限定に、元プロの意気を感じたのですが、同席していた大半の人が鼻濁音を知りませんでした。殊に大衆演劇女形だった男優が初耳だと言ったのには吃驚しましたが、彼の口跡にはかすかに東北訛りがあり、調べてみたところ福島出身なので、自分では意識していなかっただけなのでしょう。

それにしても三浦祐太朗の「さよならの向こう側」は、いい歌いっぷりでした。百恵の面影があり、しかし彼自身の優しさと、歌を大事にする気持ちがあふれていました。同席した森口博子始め女性陣が泣いていたのは、歌に感動するとともに、歌手としてのみならず母親としてもいい仕事をした同性への、オマージュだったかもしれません。

 

 

 

犬化する猫

相手を知る、もしくは話題を引き出すために訊く二者択一の質問があります。海と山とどっちが好きか、清少納言紫式部では、方丈記徒然草では(これはちょっと渋い)等々。最もポピュラーなのが、犬と猫とどっちが好きか?でしょう。

私は猫。犬は全身投げ出して飼い主に寄りかかって来るので、重すぎてつらい。猫は、ふん、そんならちょっと相手してやろうか、という具合に人間と関係をもつのがいい。大きな目でじっと観察しながら結論を顔に出さないところも、安心できます。尤も仔猫が、顔の半分を占めるような目でまっすぐ見つめてくると、ついこちらが動揺してしまいますが。

動物番組が流行っています。ご自慢動画を視ると、猫もこの頃は気質がかわってきたのでしょうか。飼い主が帰宅すると飛んできて、腹を出して身もだえしたりする映像を見せられると、おまえ猫だぞ、と注意したくなります。

ジェンダーとメディア

我が家は親の代から同じ新聞(一般紙では最も進歩的と見られている)を取っているので、ほかの報道と比べたことはありませんが、かつて身の上相談欄があった頃、妻には「不倫」、夫には「浮気」という見出しがつくのを、子供心に不審に思っていました。

日本のフィギュアスケートがようやく注目を集め始めた頃、男子の草分け的選手(現在は指導者になっている)を好意的に取材したインタビュー記事の見出しが、「女でも跳べる3回転をなぜ跳べない」(当時、女性選手で日本人初の3回転を跳ぶ人がいた)となっていて、私は編集デスクに抗議しました。なぜ女性を引き合いに出すのか、と。爾来その男性選手を応援する気になれませんでした(本人に責任はないのでしょうが)。

名古屋の大学に勤めていた頃、この新聞社の主催する市民講座の講師を引き受けたことがあったのですが、大学教授の肩書がついているのに他の講師は「氏」、私だけ(女性は私だけだった)「さん」づけで、主催者に抗議したのですが直してくれませんでした。ところが数日後、再度広告が出たときには「氏」で統一されていたのです。読者からの抗議があったから直したとのことで、後日判明したことは、その「読者」とは知り合いの若手研究者でした(今でもその方には内心恩に着ています)。

その数年後、親の死亡記事に、喪主を務めた私の名前が長女の記載と肩書きがあるのにさんづけになっている。編集部から確認の電話があったので、社会的肩書きもあり、長男なら「氏」なのに長女はどうして「さん」なのか、おたくと個人的つきあいがあるわけではない、と抗議したのですが、駄目でした。しばらくして、この新聞社の死亡記事の敬称は「さん」で統一されました。

「不倫」と「浮気」の使い分けは恐らく無意識で、悪気は無いという言い訳(最も腹の立つ言い訳)が聞こえてきそうですが、半世紀以上経った今でも、日本社会全体に存在している感覚ではないかと思うことがあります。