今は未来だ

沖縄慰霊の日の式典中継を視ながら、毎年、平和の詩を読み上げる小中学生の姿に胸を衝かれます。今年は、術後の県知事のやつれた、しかしなお背筋の伸びた姿に粛然とし、まっすぐにこちらを見つめてくる中学3年生の迫力に気おされました。

学生時代には集会で「沖縄を返せ」と歌いました。学部生の時、沖縄からの国費留学生(未だ沖縄からはパスポートの要る時代だったのです)がクラスメートにいて、よくいろんな議論をしました。思想的にはなかなか一致しませんでしたが、卒業時に「私に手紙をくれる時は、必ず沖縄県と書いてね」と言われたので、その約束は正式に返還される前の6年間、ずっと守りました。

でもこの頃、「沖縄を返せ」と歌ったのはよかったのか、と思うことがあります。沖縄の人たちにとっても、本土復帰は悲願だった、と信じていたのですが、果たしてそれでよかったのか。実際に沖縄へ行ってみると、ここはもう東南アジアだ、というのが実感です。気候風土、植生、料理、音楽、生活の身の回り品、習俗・・・それらは南へ向かって広がっている。日本の防波堤になって払う犠牲が大き過ぎはしないか。

では本土の私たちは、何を我慢すればいいのでしょうか。沖縄の空を飛び交う戦闘機の音だけでも、大抵の日本人には数日でも耐えられないでしょう。外交の力で、日々、危機を潰し、乗り越えていくこと。国の外交だけではありません。民間人の丸腰の外交こそが、日本の顔にならなければいけない。かつて国連にそういう夢を託して、進路を選んだ同級生たちが何人もいました。でも今は―ふつうの生活を送りながら、何が出来るのか。

沖縄の中学生にTV画面から眼を覗き込まれて、「未来は、今なんだ」と言い切られた時、立ちすくんだ自分が情けないと思います。

 

神話と現代

『「神話」を近現代に問う』(植朝子・南郷晃子・清川祥恵編 「アジア遊学」勉誠出版)を頂戴したので、まず平藤喜久子さんの「日本神話学の夜明け」、斎藤英喜さんの「近代神道・神話学・折口信夫」、藤巻和宏さんの「日本文学史の政治性」を読み、次いで植朝子さん「19世紀ドイツ民間伝承における「神話」の世俗化と神話学」、南郷晃子さん「地域社会の「神話」記述の検証」、清川祥恵さんの「英雄からスーパーヒーローへ」を読みました。

神話は上代の問題だと何となく思いこんでいたことに、蒙を啓かれました。殊に植・南郷・清川さんの論文は、さすが共同研究の主宰者だけあって、腰が据わっています。このテーマは、世界的神話学から神道史はもとより、伝承文芸や郷土史現代思想史、ポップカルチャーに到る広範囲に及ぶのだということを理解しました。最近、シチズンシップ教育というテーマをよく見聞きするのですが、神話がそういう形で現代から未来にまで関わってくるのだということを、大野順子さんの「神話的物語等の教育利用」という論文から知りました。

学部2年の時、大学祭で羽衣伝説の企画展示をやろうとして、松村武雄の神話学を読んだことなどを改めて思い出しました。あのまま止まっていた時間が、動き出したような気がします(中世神話はまた別)。

それにしても「アジア遊学」のレイアウトは読みにくい。2段組でなければいけないのでしょうか。せっかくの意欲的な試みなのだから、もっと広く、読者に向かってひらいていく工夫はできませんか。

 

沙羅の木

森鴎外に「沙羅の木」という4行詩があります。短いけれど素敵な詩です。この沙羅の木は、平家物語序章の「娑羅双樹」とは全く別物です。庭木によく使われ、別名夏椿。花は椿そっくりですが、落葉樹で、椿とは葉が異なり、柔らかくて柔毛が生えています。一日花なので、朝咲いてその日の暮には落ちてしまいます。宇都宮大学の正門には、この木の並木があり、今頃は門衛が落花を掃くのに忙しく、秋には紅葉がきれいでした。乾いてはじけた実もけっこう面白く、飾り物になります。

平家物語に出てくる「沙羅(娑羅)」は、日本では露地では生育しません。新宿御苑の温室にあると聞いていますが、私も未だ見に行ったことはありません。フタバガキという木の仲間の喬木で、インドでは日陰が大事なので、並木にするらしい。花は目立たない小さなもので、「双樹」は2本1対に生えていることを表わしています。釈迦が涅槃に入った時、この木が、横たわる釈迦の上を天蓋のように覆って真っ白になったので、「娑羅双樹の花の色」は「盛者必衰の理をあらわす」というのです。

夏椿は、園芸の方で、花が落ちやすいところから無常を連想して、「沙羅」と命名されたようです。日本では見られない沙羅の木に対する仏家の憧れもあったのか、寺院によく植えられています。似た例では、菩提樹についても欧州、印度、中国、日本でそれぞれ違う木が宛てられているらしい。ネットで「沙羅」を検索すると、とんでもない植物も画像一覧に上がっているので、注意が必要です。

鴎外の詩には、「褐色(かちいろ)の根府川石に 白き花はたと落ちたり」という1節があり、夏椿の花の魅力がよく出ていると思います。

宇治川先陣について

大森北義さんの論文「『平家物語』の「宇治川」について」(「古典遺産」67号)を読みました。寿永3年1月、前年に平家を追い落として都入りした義仲軍を、頼朝の命を受けた義経率いる東国軍が討伐しようとして、宇治川をはさんで対戦する。その渡河作戦の一番乗りを、それぞれ名馬に乗った佐々木四郎高綱と梶原源太景季が争う話は、高校の教科書にも採られていて、よく知られています。

大森さんはこの記事には①佐々木・梶原の先陣争い ②頼朝による義仲追討戦争 という2つの主題があるとして、①を主軸にする語り本系平家物語と、①②を併せて描こうとする読み本系平家物語、さらに頼朝が墨俣合戦で先陣争いのトラブルを起こした範頼を叱責した『吾妻鏡』の記事(元暦元年2月1日条)とをつき合わせ、当時の政局を分かりやすく説明していきます。

頼朝は、この戦いの勝敗は後白河院の確保によって決まると考え、宇治川開戦後は、義仲に時間的猶予を与えない迅速な攻撃が必要と判断した。義仲もまた後白河院を伴って都落ちしようとしていた(『玉葉』1月20日条)ので、頼朝は難所である宇治川を可能な限り速く突破するために、先陣を争う人馬の仕組みを予め用意した(と平家物語は語っている)のだ、というのが大森さんの解釈です。

平家物語は、治承寿永の内乱の主役であった後白河院と頼朝を、正面切って描いていないように見えますが、じつはちゃんと描いている。読み本系諸本の方がやや露骨ではありますが、この指摘は語り本系諸本でも同様だと思います。これこそ、平家物語の巧みな歴史語りの方法なのです。

桜桃忌

今日は桜桃忌。勿論、さくらんぼを買って来て、仏壇に上げました。

「桜桃忌」というタイトルの歌が複数あるのですね。1曲はさだまさし風のフォーク、もう1曲は何と演歌。尤も、幼年時代に新内の「蘭蝶」を聞いて恍惚とした、という太宰のことゆえ、演歌もまんざら嫌いではなかったかもしれません。

しかし、太宰の世代の重荷は、旧来の日本の家制度や倫理だけでなく、急激に流れ込んできた欧米の近代文化と旧体制との、ごりごりした葛藤だったのではないかという気がします。藤村の世代とも芥川の世代とも違って、より直接的に入り込んでくる欧米の社会変化が、未だ同じ基盤に立っていない日本社会の若者を二重の摩擦ですり減らす、そんな時代だったのでは。斜陽館のハイカラな洋風木造建築を見て以来、大正・昭和初期の青年たち(それは私の父母の世代でもあります)の呼吸していた空気を、そんな風に想像しています。

「桜桃」という太宰の晩年の短編は、酒場で呑んだくれながら、出された宝石のような桜桃に子供を思う、泣き笑いの作品です。戦後間もない頃は、「親はなくても子は育つ」という諺が、よく人の口に上りました。戦災孤児がたくさんいたからです。その中で「親はあっても、子は育つ」と、太宰や坂口安吾檀一雄たちは半ば冗談、半ば本気で言い合っていたらしい。親の甲斐性や無頼に関係なく、次世代はまっとうに育っていくもんだ、という、慈愛と自虐的ユーモアの溢れる警句でした。

羊、鋼、そして森

宮下奈津『羊と鋼の森』を読みました。久しぶりに、文学に救われた気がしました。先々週、難しい事業を支えてくれるはずの人物に脚を引っ張られたりして、私もかなり参っていたからです。いい仕事に惚れて、それを助けたくて、自分自身も行く手に道がひらく―その瞬間を描いた場面に、何度も涙ぐみそうになりました。

成人物語ですが、単なる恋愛物語にはしたくない。当分、映画化作品は観ないつもりです。仮名をほどよく混ぜた文体がそもそもの魅力だし、私のイメージでは、主人公は坊主頭の学生服で登場して欲しい。修行僧のような清冽さが彼の真面目(しんめんもく)でもあり、静かな生命に満ちた森の、香り高い風が全編を通して吹き抜けている感じは、映像では出せないと思うからです。

周囲の人物がけっきょく、みんな「いい人」だったり、双子の妹が年令不相応に前向きの子だったり、都合の良すぎるストーリーでもありますが、自分の選んだ道がこれでいいのか、このまま行っていつかはどこかへ着地できるのか、という不安は、誰しも(若くなくても)持っているもの、その感覚のあるうちがつまりは生きて在ることなのだ、と言ってもいいでしょう。中学生以上、高齢者にもお奨めします。

ベテランの板鳥さんのホールでの調律を初めて見る場面。双子の姉和音(かずね)が、決意を以てピアノを弾く場面。天の川を渡す鵲を集める決心をした主人公が、1日限りの純正律に調律する場面。シニカルな秋山さんが、仕事を「ただ、やるだけ」と言い切る場面。和音のために調律をしたことで、主人公にもさらに上方の目標が見えたこと―研究者を目指す人には、他人事とは思えないのではないでしょうか。

 

平家語りQ&A

6/10の芸能史研究会シンポジウムでの基調講演「平家物語諸本の展開と平家語り」について、メールで質問が寄せられましたので、応答の要点を紹介しておきます。

Q1①配付資料の「年表」について確認したいことがあります。「1320年以後、『源平盛衰記』片仮名交じり本文存在」となっていますが、その根拠は?長門切の発見と関係があるのでしょうか。「1320年以後」というのは、覚一本より早いということでしょうか。

読み本系諸本の享受の仕方ですが、黙読とは別の太平記読みのようなものもあったのでしょうか。(ワイジャンティ・セリンジャー)

A1:①については拙著『軍記物語論究』p426以下をご覧下さい。

元応2年(1320)9月7日付文書の紙背に片仮名書きの源平盛衰記の本文の一部が書かれています。それゆえ「1320年以後、片仮名交じり本文存在」としましたが、長門切の年代判定が1200年代末となれば、幅を持って推測しなければなりません。紙背の年代ですので、「以後」には1371年(応安4年)以降も含まれます。 

②読み本系諸本の享受については、具体的な資料はありませんし、読み本系の各々によっても異なるでしょうが、音読・黙読が中心で、太平記読みのような芸能は想定されていません。渥美かをる氏は、絵解を想定されましたが、部分的にはともかく全体ではないでしょう。写本・版本いずれにせよ稀少品だったので、誰かが読み上げるのを聴く、特に貴人が誰かに読み上げさせ、関係者が囲んで聴くということはざらだったでしょう。(mamedlit)

Q2:大変勉強になりました。帰りの地下鉄のホームで、聴衆の1人が、「琵琶法師が『平家物語』を作ったと思っていたのに違うのだねえ」と話していたのが面白かったです。さて質問があります。

①原平家の成立を承久の乱以降とお考えのようですが(現在の通説)、私は、約半世紀の間に種々の諸本が成立し、さらに『保元物語』や『平治物語』との交渉も加えながら成立したと考えるには、余りにも時間がなさすぎると考えています。原態『平家物語』の成立が承久の乱以降であることは確かですが。

②当道座の成立はいつ頃とお考えなのでしょうか。当初いろいろな芸態を持っていた琵琶法師が、『平家物語』を初めとする物語を語るようになっていった理由の一つには、当道座の成立が大きく関わると思うのですが。(早川厚一

A2:①については、「原(態)平家物語」をどのようにイメージするかが鍵だと思います。また諸本展開のスピードは、段階・時代によって均等ではなかったでしょう。私は原平家から読み本系祖本への拡大までは速かったのではないかと考えています。保元平治物語との交流は、どの段階でお考えですか?

②については当日、ちらっと申し上げました。確実な資料はありませんが、やはり覚一が京洛で活躍する頃から組織が固まり始めたのではないでしょうか。当道座成立以後、琵琶法師の語りがどう変わったかについては、手がかりがありません。(mamedlit)

質問ではなく以下のような感想も頂きました。参加出来なくて残念だった、とのこと。

コメント:<語り>の機能については、もう少し勉強して理論的に踏み込んで申しておけばよかったと思っていますが、当時水原一さんから、延慶本について「同文繰り返しがある」と手紙をもらったまま、諸本論の激変期(古態本がひっくり返る時期に入ったばかり)でもあり、延慶本本文の手入力など恐ろしくて出来なかった。(村上學)