羊、鋼、そして森

宮下奈津『羊と鋼の森』を読みました。久しぶりに、文学に救われた気がしました。先々週、難しい事業を支えてくれるはずの人物に脚を引っ張られたりして、私もかなり参っていたからです。いい仕事に惚れて、それを助けたくて、自分自身も行く手に道がひらく―その瞬間を描いた場面に、何度も涙ぐみそうになりました。

成人物語ですが、単なる恋愛物語にはしたくない。当分、映画化作品は観ないつもりです。仮名をほどよく混ぜた文体がそもそもの魅力だし、私のイメージでは、主人公は坊主頭の学生服で登場して欲しい。修行僧のような清冽さが彼の真面目(しんめんもく)でもあり、しんとした森の、香り高い風が全編を通して吹き抜けている感じは、映像では出せないと思うからです。

周囲の人物がけっきょく、みんな「いい人」だったり、双子の妹が年令不相応に前向きの子だったり、都合の良すぎるストーリーでもありますが、自分の選んだ道がこれでいいのか、このまま行っていつかはどこかへ着地できるのか、という不安は、誰しも(若くなくても)持っているもの、その感覚のあるうちがつまりは生きて在ることなのだ、と言ってもいいでしょう。中学生以上、高齢者にもお奨めします。

ベテランの板鳥さんのホールでの調律を初めて見る場面。双子の姉和音(かずね)が、決意を以てピアノを弾く場面。天の川を渡す鵲を集める決心をした主人公が、1日限りの純正律に調律する場面。シニカルな秋山さんが、仕事を「ただ、やるだけ」と言い切る場面。和音のために調律をしたことで、主人公にもさらに上方の目標が見えたこと―研究者を目指す人には、他人事とは思えないのではないでしょうか。

 

平家語りQ&A

6/10の芸能史研究会シンポジウムでの基調講演「平家物語諸本の展開と平家語り」について、メールで質問が寄せられましたので、応答の要点を紹介しておきます。

Q1①配付資料の「年表」について確認したいことがあります。「1320年以後、『源平盛衰記』片仮名交じり本文存在」となっていますが、その根拠は?長門切の発見と関係があるのでしょうか。「1320年以後」というのは、覚一本より早いということでしょうか。

読み本系諸本の享受の仕方ですが、黙読とは別の太平記読みのようなものもあったのでしょうか。(ワイジャンティ・セリンジャー)

A1:①については拙著『軍記物語論究』p426以下をご覧下さい。

元応2年(1320)9月7日付文書の紙背に片仮名書きの源平盛衰記の本文の一部が書かれています。それゆえ「1320年以後、片仮名交じり本文存在」としましたが、長門切の年代判定が1200年代末となれば、幅を持って推測しなければなりません。紙背の年代ですので、「以後」には1371年(応安4年)以降も含まれます。 

②読み本系諸本の享受については、具体的な資料はありませんし、読み本系の各々によっても異なるでしょうが、音読・黙読が中心で、太平記読みのような芸能は想定されていません。渥美かをる氏は、絵解を想定されましたが、部分的にはともかく全体ではないでしょう。写本・版本いずれにせよ稀少品だったので、誰かが読み上げるのを聴く、特に貴人が誰かに読み上げさせ、関係者が囲んで聴くということはざらだったでしょう。(mamedlit)

Q2:大変勉強になりました。帰りの地下鉄のホームで、聴衆の1人が、「琵琶法師が『平家物語』を作ったと思っていたのに違うのだねえ」と話していたのが面白かったです。さて質問があります。

①原平家の成立を承久の乱以降とお考えのようですが(現在の通説)、私は、約半世紀の間に種々の諸本が成立し、さらに『保元物語』や『平治物語』との交渉も加えながら成立したと考えるには、余りにも時間がなさすぎると考えています。原態『平家物語』の成立が承久の乱以降であることは確かですが。

②当道座の成立はいつ頃とお考えなのでしょうか。当初いろいろな芸態を持っていた琵琶法師が、『平家物語』を初めとする物語を語るようになっていった理由の一つには、当道座の成立が大きく関わると思うのですが。(早川厚一

A2:①については、「原(態)平家物語」をどのようにイメージするかが鍵だと思います。また諸本展開のスピードは、段階・時代によって均等ではなかったでしょう。私は原平家から読み本系祖本への拡大までは速かったのではないかと考えています。保元平治物語との交流は、どの段階でお考えですか?

②については当日、ちらっと申し上げました。確実な資料はありませんが、やはり覚一が京洛で活躍する頃から組織が固まり始めたのではないでしょうか。当道座成立以後、琵琶法師の語りがどう変わったかについては、手がかりがありません。(mamedlit)

質問ではなく以下のような感想も頂きました。参加出来なくて残念だった、とのこと。

コメント:<語り>の機能については、もう少し勉強して理論的に踏み込んで申しておけばよかったと思っていますが、当時水原一さんから、延慶本について「同文繰り返しがある」と手紙をもらったまま、諸本論の激変期(古態本がひっくり返る時期に入ったばかり)でもあり、延慶本本文の手入力など恐ろしくて出来なかった。(村上學)

 

 

説話文学会

久々に、仏教資料一色番組でなかったので、説話文学会に出てみました。「判官物研究の展望」というタイトルのシンポジウムです。まずは最近入手したという「義経一代記図屏風」を紹介した小林健二さんが、『義経記』とは別に九郎判官の逸話を語る判官物の系列があること、それらには幸若や古浄瑠璃、能などの芸能の素材が盛り込まれており、中世から近世へと大きな潮流を形づくっていることを述べました。次に鈴木彰さんが『義経記』の研究史をおさらいして、今は受容史研究がトレンドであることを強調し、今後何をやりたいかを述べました。

その後、斎藤真麻理さんの「『御曹司島渡り』と室町文芸」、本井牧子さんの「『義経奥州落絵詞』の形成」、西村知子さんの「『異本義経記』を一例として(『義経記』の変容)」、伊海孝充さんの「判官物の能の手法」といった、パネラー報告が4本並びました。一つ一つは面白いけれど、盛りだくさん過ぎて並置しただけになり、シンポジウムとしての機能はあまりはたらかなかったようです。

義経記』とそれ以外の判官物と2本の流れがあるとするなら、その共通点は何なのか、一方の『義経記』を特徴付けるものは何か等々議論したいことがあって挙手したのですが、有名人たちが次々に持論展開して時間切れ。この頃の学会シンポでのお決まりコースのようですが、その日の話題に突っ込んで深掘りするのがフロアの作法ではないでしょうか。一期一会のシンポなのだから、異なる角度から大きな議論の場に持ち出したい。有名人の持論展開は懇親会でお願いしたいものです。

君の名は?

昨年、区役所が道路脇に置いてある住民の鉢植えを片端から撤去しました。肉屋の前のガードレールに寄せてぎっしり置いてあった鉢は、近所のアパート住まいの女性のものだったそうで、「貰って下さい」という札が出ました。我が家では、匂い菫と擬宝珠の小さな鉢を貰って帰りました。

よく見ると、匂い菫の鉢には、こぼれ種が落ちて芽を出したらしい蔦や雪の下や萩や花酢漿草も同居しています。蔦は切り詰め、花酢漿草は抜き、萩は他の鉢に植え替えました。本命は匂い菫でしたが、親指の爪ほどの大きさだった雪の下があれよあれよと大きくなり、ランナーを出し、ついに菫は咲きませんでした。擬宝珠も葉が茂るばかりで、未だ蕾の気配もありません。ま、雪の下も擬宝珠も、葉が食用になるからいいか、とそのまま育てることにしました。

ところがー植え替えた萩がすくすく伸び始め、枝垂れずに草頭に蕾が出ました。未だ若いから直立するのかと眺めていると、蕾が日ごとに白っぽくなる。白萩かな、それもいいか、と水をやっていたところ、今朝見て吃驚!黄色い小花が群がって咲いているのです。豆科ではありません。記憶にある、これに似た花をあれこれ思い出し、ネット検索したところ、草連玉(くされだま)にそっくりですが、葉先が丸いところが違う。

だれ?あんたは。

そんなつもり

このところ、「そんなつもりじゃなかった」「そんな気持ちはまったく無い」という言訳にうんざりする局面が、遠近ともに多い気がします。じゃどんなつもりだったのか言ってみろ、と問い詰めたくなる、もしくは問い返すのもうんざり、という例も少なくありません。

セクハラは、やった本人の「そんなつもりはない」という言訳は無効だ、ということはもはや常識です。つもりがあってセクハラをしたと認める奴はいない。やられた方が「厭だ」という意思表示をしたのにその行為を続ければ、それがハラスメントであり、被害者の意思表示が鍵なのです。

何の権限も持たない者が「いいお話ですから進めて下さい」と言って、その通り公的資産が不適切な価格で譲渡されたとしたら、そこに重大問題が生じたことは紛れもないでしょう。「そんなつもりで」言ったのでなくとも、そうなる危険を避けるべき立場にあることはわかりきっているからです。

日章旗をローマ字書きにしたタイトルの歌詞は、「そんなつもり」があろうとなかろうと、全くの軍歌です。スポンサーは誰ですか?と訊きたくなる。「優しい母」や「強い父」、「御霊」、「守るべき」などの語彙で、現代の愛国心が歌えますか?愛国心と死のイメージが結びつく感覚は、2018年の日本人にふさわしいですか?

その場で言うべきでない自分の愚痴をあたかも正義のように発言して、反撃されたら泣き、「そんなつもりで使った言葉ではなかった」と弁解する職業人に振り回されたこの1週間ー上記のような国家の大事に比べれば些細なことだと諦めがつくほど、私も器量が大きくない。根は同じ、覚悟もなく自分を誇大評価したかったのではないかしら。

絹と鉄

丸の内の日本工業倶楽部の1室で開かれた会議に出ました。お濠を見下ろす一角です。工業倶楽部のファサードには男女一対の像が乗っています。女性は絹織物を、男性は鉄工業を象徴し、丸の内を見下ろしています。日本の工業は絹と鉄が支えるのだという意味らしい。何だか東欧のようで、ちょっとこそばゆい気がします。

出張で巴里の街を歩いた時、あちこちで日比谷や丸の内を思い出しました。日本の近代都市造りは欧州のなぞりから始まったのだ、と考えさせられました。丸の内の建物の軒や扉には、ちょっとした飾りが付いています。これだけを撮っても楽しい写真集が出来るかも知れません。

会議が終わって外へ出たら、未だ空は薄明るく、風が爽やかでした。東京駅の背後には巨大なビルが建ち並び、灯りがともり始めています。丸の内を歩く女性は、ヒール音が一際高い。1人前の職業人であることは、給料や地位ではなく、各自、己れ自身への要求の高さによるのだ、と心に呟きながら地下鉄に乗りました。

郷土資料の文学

野本瑠美さんの「崇徳院と和歌」(「国語と国文学」2月号)、「手銭家所蔵資料の研究と古典講座」(『地域とつながる人文学の挑戦』島根大学法文学部研究センター)を読みました。特に後者は、私自身の経験と重なる点やそれ以後の学問の変化と引き比べながら考えるところが多く、有意義でした。

手銭(てぜん)家は出雲市大社町の豪商で、地区の要職も務め、藩や出雲大社とも関わりを持ち、美術品・古典籍・生活用具など多くの文化財を所有しており、現在は記念館が設けられ、その記念館と島根大学とが協力して「出雲文化活用プロジェクト」を起ち上げたのだそうです。野本さんは、手銭家所蔵古典籍の調査整理や、それらを活用して2016~17年に計10回開かれた連続講座「古典への招待」に関わることによって得た知見を分かりやすく紹介しています。

地方の有力者・豪商の家族たちは当時、和歌・俳諧儒学などの教養を身につけ、それらの学習会・実作を伴う交歓会を開くことが生活の一環でした。彼等の短冊や研究ノートが、郷土資料として未整理のまま残されていることはよくあります。私も若い頃、鳥取や長野でそれらに遭遇し、充分な関わり方ができなかったことを、少々の後悔と共に思い出します。

江戸から明治にかけて、商家の妻女たちが、結構そういう活動の中心にいたことは重要なことかもしれません。また寛政元年(1789)の手銭家婚礼の棚飾りに、絵入り九巻抄出本『栄花物語』が使われたなどということも、全集本や文庫本でしか古典を思い浮かべられない現代人には、新鮮な印象を与えるのではないでしょうか。

崇徳院と和歌」は、なぜ崇徳院長歌の形式にこだわりを持ったかを考察した論。藤原隆房の『艶詞』に注釈をつけた時のことを思い出しながら、「形式」が権威や関係を左右することを改めて考えました。