分を知るカップ

東京は終日、寒くて暗くて湿っぽい1日でした。午前中に初雪が舞った、との報道もありました。30年前、鳥取で暮らしたアパートにはエアコンがなく(ガスストーブでしのいだ)、結構すきま風も入ってきて、冬は寒くてつらく感じました。

当時仲の良かった日本史の同僚にこぼしたところ、「人間は、分を知らなくてはいけない」と説教されました。寒さと私の分とがどう関係するのかよく分かりませんでしたが、何がみじめなのか考えてみたところ、朝食の後に飲む珈琲のカップが気に入らないことに思い当たりました。着任後第一に、地元の陶器を買ったのですが、重いわりに重厚感がない。色もくすんでいて夢が感じられないのです。

さっそく駅前のデパートに出かけて、数少ない磁器の中から、白地に青と赤と金で花蔓を描いたコーヒーカップを買ってきました。やはり珈琲や紅茶は、カップを選ぶ。すこし元気が出ました。爾来、「分を知るカップ」と名づけて、今も愛用しています。その間、いくつも食器を壊したり換えたりしましたが、鳴海のボーンチャイナは、白地も文様も変わりません。

後年、あの同僚に「分を知る」とはどういうことかと尋ねたところ、その土地、その季節に合わせた生活がある、と言うつもりだった、との答。日本語の意味、違うだろ!