枕草子本文

沼尻利通さんの「東松本『大鏡』裏書所引枕草子本文の検討」(「福岡教育大学 国語科研究論集」60号)という論文を読みました。『大鏡』はもともと巻子本仕立だったらしく、裏書があります。その中に引用されている『枕草子』の本文が、どの諸本に近いかを考証して、三巻本に最も近いが現存の三巻本からの引用ではない、裏書にする際の書き換えもあったかもしれないと結論づけた論考です。

2004年から3年間、科研費のチームを作って「汎諸本論構築のための基礎的研究」という共同研究をやったことがありました。軍記物語だけが諸本の問題を抱えているわけではなく、他のジャンルや時代、享受方法の異なる作品の場合を参照すれば新たな視野が開けるのではないかと考えたのです。歴史物語の加藤静子さん、御伽草子小林健二さん、狭衣物語の片岡利博さん、和歌の佐々木孝浩さんたちに入って頂き、重量感のある共同研究でした(報告書は冊子体、非売品)。

未だ大学院生だった沼尻さんも、仲間に入っていました。チームを組む際、どういうジャンルや作品の専門家に入って貰うか検討したのですが、『宝物集』や『住吉物語』は諸本論が錯綜し過ぎていてむつかしいだろう、ということになりました。『枕草子』も、議論する機会があったのに逃がしてしまったと、今は残念に思います。

本論文の最後に、沼尻さんはこう書いています―『枕草子』の「大きく4種類とする、現在の分類は、現在においては有効であるが、過去においてはどれほど有効であるかは、疑問である。おそらくより多様な枕草子があり、その淘汰現象の結果として、現在の4種類があるに過ぎないと考えるべきであろう」。これは平家物語研究者も拳々服膺したい言葉です。

積木的議論のために(2)

たくさんの人を見てきて、就中その晩年を見るようになって、つくづく思うのは、人の一生には、消費的人生と、(何がしかの)生産的人生とがあるのだなあ、ということです。どちらが上ということはありません。「生産」とは、子供を作るとか物作りを仕事にするとかいうことでもありません。例えばせっせと花を作っても、誰にも分けず、荒らされたり盗まれたりすることにばかり神経を尖らせている人は、たいてい消費的人生です。病身でデスクワークがやっとでも、他人にヒントを与えたり励みをもたらす機会があれば、その人は創造的、生産的な生活を送っていると言えるでしょう。

願わくは、後者のような人生で終わりたい。その方がたぶん、楽しいから。そして全国民中、後者が一定以上の比率を占める国は、少子高齢化にも耐えていけるのではないでしょうか。なぜなら、発明や発見は、たとえ偏屈で知能程度が高い科学者から出発したとしても、文化水準や国力の基になるまでには、後者のような人々の手から手へ渡されて初めて、使い物になるからです。

人づくり改革?いまの教育制度改革や入試制度いじりは、消費的人生をかしこく送るためのものです。権力や権勢をわがものにしたい人、自分の周囲だけがそこそこ充足されて一生を過ごしたい人には都合のよい社会ができるかもしれません。しかし実際の世界は、未だ未だ人間に理解不能なことがらに充ち満ち、複雑怪奇な様相を呈している。そこに横たわる問題を解明し、消費的にも平和に、生産的にも開放されて、誰もが生涯を全うできる社会を実現するには、どういう基礎教育が有効か―眼前の不可解な現象(文字列)を、自分の力で解きほぐし、新しい意味を読み取る悦びの体験こそ、その原動力になるものと信じます。

全訳注平治物語

谷口耕一・小番達共著『平治物語 全訳注』(講談社学術文庫)が出ました。 文庫本とはいえ650頁を越え、情報のびっしり詰まった1冊です。谷口さんは永年、平治物語の注釈稿を抱え続け、紆余曲折を経ていま会心の著として世に出すことになりました。

底本は、平治物語諸本の中でも最も文芸的達成度の高いとされる第4類本の蓬左文庫本ですが、第4類本と第1類本については、13種の本文と比較対校したと凡例に述べています。内容は、まず適宜区切った本文を掲げ、現代語訳・語釈・校訂注・解説を付し、全3巻の後に補注・地図・解説(平治物語の総説)を載せています。本書の特色は、各章段ごとの解説や補注(100頁以上ある)の豊富さで、それだけを読んでも退屈しません。

一般読者向けでもあるため、総説は分かりやすく、専門用語を避けて書かれていますが、平治物語は史料ではなく(平治の乱の現存史料は少なく、日記・記録類は、意図的に遺されなかったのではないかとも言われています)物語であること、第4類本の成立は室町後期であろうことを強く主張しています。この主張は、軍記物語講座第1巻『武者の世が始まる』(花鳥社近刊)に執筆した論考でも展開されていますが、本書では現存の第4類本は、最終的に永正15(1518)年から天正20(1592)年に潤色されたものとしており、今後論議を呼ぶことになるでしょう。

平治物語の序は、太平記に似通う評論性と物語全体に及ぶ価値基準を持っています。また物語の末尾が諸本によって異っており、谷口さんは、源家後日譚を切り捨てたところに、第4類本が平家物語前史の位置を占めようとした時代的変遷があると見ています。そもそも第1類本が、異なる伝本のとりあわせ本文でしか読めない点を初めとして、平治物語の研究は、まさにこれからです。

定年後の買い物

日本橋三越へ出かけました。濱田友緒作陶展が目的でしたが、生活方法が変わった故の、諸々必要な買い物もありました。杖を突くようになったので、肩に掛けるエコバッグを使っていたのですが、ちゃんとした、軽くて大きなバッグを、と鞄売り場へ行ってみました。ブランド品ばかりで、高い。一回り見て、あれがよかったかな、と最初に見た物の所へ戻ってみると、値札を1桁見間違えていたことに気づきました。立ち止まっていたら、店員がどうかなさいましたか、と訊く。買う客だとは見えなかったらしい。

友緒さんの新作は、前回よりもおとなしい、あかるい気がしました。いいなあ、と思うのはやはり大きくて重量感のある物。もう私が持ち続ける自信はありません。白地に益子独特の柄が入った蕎麦猪口を一つ、買いました。小鉢として使う所存です。焼いてみたら土の中に入っていた鉄分が、思いがけずしみになってしまった、というカップで紅茶を頂きながら、友緒さんと短いお話をしました。益子の紅葉は11月だそうです。

隣で小峠葛芳作陶展をやっていたので、入ってみました。島岡達三に師事し、京焼などいろいろな作風を試した人だそうで、交趾の飛鉋の水差や三嶋手の小鉢がいいなあと思いました。 

気になりながらなかなか手に入らなかった買い物を幾つか済ませ、地下の食料品売り場へ降りました。今夜は仲秋の名月。曇天でも日本酒向きの総菜を、と美濃吉で鱧の天麩羅とだし巻きを買いました。現役時代は何でもなかったのに、年金生活になると日本橋の価格は痛い。消費税が上がったら暮らせるのかどうか、未だ分かりません。つましく贅沢をして行きたいと思います。

第10回濱田友緒作陶展は日本橋三越本店6階美術特選画廊で、9月16日まで。

積木的議論のために(1)

高校の頃、古文や英語がなぜ面白かったかというと、(特に英語の場合)単なる記号(ABC)の羅列でしかないものが、辞書を引き、自分の想像力を動員してつなげていくと、意味を持って生きて起ち上がってくる、その悦びだったと思います。知らない世界が眼前に展開してくる、わずか辞書を引くだけの労力で―それは未だ稚い自我にとって、万能感にも似た励ましを与えてくれる瞬間でもありました。

古文の場合は、うすうす何を扱っている文章なのかは分かるけれど、ところどころに小さな瘤のような、いまひとつ納得できない部分があって(それはたいてい助詞や助動詞でした)、そこが解ると、現代語では表現しきれない、微妙な含蓄がぱあっと拡がり、一気に照明があかるくなったように世界が見える―だから助動詞の基本的な意味を理解できるための文法は、無味乾燥ではありませんでした。

いま思えば、強圧的で無茶な教師たちでしたが、10代でめぐり遭った彼等のおかげかもしれません。英語は、とにかくたくさん、文学作品を読ませられました、高校でも大学の一般教育でも。古文は高校1年目で体系的に文法を叩き込まれ、教科書の『徒然草』はその用例集代わり。2年以降は辞書さえあればたいていの古文は自分で読めるので、どんどん読みました。すると、面白い。授業でなく読書になったのです。

一方、西洋史や地理、実験を殆どしない物理は単なる事項の暗記しかなく、つまりませんでした。漢文も同じ。数学は語学に似ていたし、生物は身近に興味のある実例が豊富で面白かったけど、受験用に編成されたカリキュラムのため続けて履修することが叶いませんでした。

学ぶことって、何だろう―あのわくわく感には、その後もたまに、研究や鑑賞の現場で出会うことがあります。たとえ一瞬でも、人間に生まれてよかった、と思う瞬間です。

辞退率

就活援助をうたうビジネスが、辞退率を予測するデータを勝手に売っていたのは、個人情報保護法に触れるとして警告を受けたそうです。そういうビジネスが成り立っていることを知った時は憤慨し、就活生に同情しました。説明する機会のない情報で将来を判断される、それでは採用を広告した側との間の信頼関係はどうなるというのでしょうか。

しばしば疑問に思うのは、就職とは、採用する側が絶対的権限を持ち、される側が平身低頭、あるいはどのようにも仰せの通りにいたします、と言える態勢を取って臨む、という案件なのかということです。口に出しては言わないまでも、志望者の方も就職先を選んでいる、未だ雇用関係が成立していないのだから、両者は対等です。人事担当者たちは、自分たちも選ばれているのだという感覚を、普段から持っているでしょうか。最初から「御社」一筋、他の企業のことは調べもしません、などという目隠しをつけた馬車馬のような人材を欲しいと思っているのなら、その企業の将来は暗い。あれこれトライしてみてから、やっぱりここで仕事したいと思って貰えたら光栄、我が社にはそのくらいの自信はある、という人事担当であって欲しい。

無論、現実の力関係の中では、そんなスタンスは夢物語でしょう。しかし、基本的にそういう考えに立って志望者に接するか否かが、企業の将来に影響するのだということを採用側は解っていなくては。驕れる者久しからず―落とした志望者たちはライバル企業に入るかもしれないし、少なくとも顧客になる可能性が大きい。

第一、今どき人間1人の勤労期間(40年)の最後まで、着実な経営を必ず保障できますか?創業者以外、誰にもそんな断言はできない時代です。

日脚

台風の後、猛暑が戻ってきました。36度を越えると肌で分かります。自分自身が一番冷たいわけで、家具も食器も、さわる物みな温かい。昨日は午後からの陽ざしでしたが、今朝は日の出から。おまけにベランダの陽光が次第に家の中に近づいてきて(そうなる設計です)、縁側に立つだけで熱気に襲われます。干し物をするにも、全身陽光を浴びなければなりません。

そこで朝起き抜けに、鉢植えやプランターを縁のすぐ下へ移動しました。日々草は咲き替わり咲き替わり、我が物顔に茂っています。ブルーサルビアがやっと咲き出しました。菊はいま日に当てないと蕾がつかないので、ずらりと日当たりのいい所へ並べます。風呂の残り水でせっせと打ち水をし、汗ぐっしょりになりました。

タンクトップにショートパンツで今日1日を暮らす所存なのですが、前回この格好で出くわした近所の親父が仰天したので、朝刊を取りに行くのを躊躇っています。人気のないのを見澄まして・・・