積木的議論のために(2)

たくさんの人を見てきて、就中その晩年を見るようになって、つくづく思うのは、人の一生には、消費的人生と、(何がしかの)生産的人生とがあるのだなあ、ということです。どちらが上ということはありません。「生産」とは、子供を作るとか物作りを仕事にするとかいうことでもありません。例えばせっせと花を作っても、誰にも分けず、荒らされたり盗まれたりすることにばかり神経を尖らせている人は、たいてい消費的人生です。病身でデスクワークがやっとでも、他人にヒントを与えたり励みをもたらす機会があれば、その人は創造的、生産的な生活を送っていると言えるでしょう。

願わくは、後者のような人生で終わりたい。その方がたぶん、楽しいから。そして全国民中、後者が一定以上の比率を占める国は、少子高齢化にも耐えていけるのではないでしょうか。なぜなら、発明や発見は、たとえ偏屈で知能程度が高い科学者から出発したとしても、文化水準や国力の基になるまでには、後者のような人々の手から手へ渡されて初めて、使い物になるからです。

人づくり改革?いまの教育制度改革や入試制度いじりは、消費的人生をかしこく送るためのものです。権力や権勢をわがものにしたい人、自分の周囲だけがそこそこ充足されて一生を過ごしたい人には都合のよい社会ができるかもしれません。しかし実際の世界は、未だ未だ人間に理解不能なことがらに充ち満ち、複雑怪奇な様相を呈している。そこに横たわる問題を解明し、消費的にも平和に、生産的にも開放されて、誰もが生涯を全うできる社会を実現するには、どういう基礎教育が有効か―眼前の不可解な現象(文字列)を、自分の力で解きほぐし、新しい意味を読み取る悦びの体験こそ、その原動力になるものと信じます。