芸能史研究会シンポジウム

 

第55回芸能史研究会大会 シンポジウム「<平家語り>の展開と継承」

 日時:6月10日(日)13:30~17:30

 会場:同志社女子大学純正館S014(今出川キャンパス)  *来聴歓迎

 基調講演:松尾葦江「『平家物語』諸本の発生と<平家語り>」

   講師:辻浩和(川村学園女子大学准教授)「中世前期における盲人の芸能」

      鈴木孝庸(平曲研究・演奏者)

          「室町時代の琵琶法師の活動について―享受史料から―」

      薦田治子(武蔵野音楽大学教授)

          「近世・近代の平家語りの享受の場と語りの変容」

 趣意:平家物語といえば、琵琶法師が語ったというイメージが、一般読者にもつよく印象づけられている。近年では殊に学校教育を通して、その傾向は増幅されているらしい。しかし、それはかならずしも「平家」を語る琵琶法師の実態や〈平家語り〉あるいは平曲についての十分な理解をふまえたものではない。その結果、漂泊の琵琶法師の活動と当道座の管理下における平曲のあり方とが混同されたり、『平家物語』詞章の韻律と平曲の音楽性が同一視されたり、膨大な『平家物語』諸本の発生と〈平家語り〉の流動性が安易に結びつけられているという状況が生まれているように思われる。そこには、『平家物語』の成立や諸本をめぐる文献研究と〈平家語り〉についての芸能史研究との連携不足という状況があるのではないかと思われ、それが本企画の出発点である。 

平家物語が、語りと特別の関係をもつことによってその独自性を育んできた文学であるのならば、いま、そのことの意味を過不足なくとらえ直し、芸能史研究、平家物語研究双方にとっての課題を認識すべき時期にきていると思う。そこで、今回は中世芸能史、中世日本文学、語り物文芸、日本音楽の各専門分野からそれぞれの研究テーマで報告してもらい、〈平家語り〉の「継承と変容」について考えてみたい。また、基調報告、パネル報告後のディスカッションでは、フロアからの意見も伺う予定である。

一方で、当道座以来の、口から耳への〈平家語り〉は、今や存続の危機に瀕している。そこでは譜本による継承は行われてはいるが、本来、芸能は人から人へ、身体を通して承け継がれていくものであったことを思えば、我々の時代に、〈平家語り〉が化石化してしまわぬために何が出来るのかも、この機会に考えてみたい。

美食の3日間

宮古島から来たシェフの一家と共に、青山霊園へお参りに出かけました。私はまず、我が家の祖父母の墓へ。隣の墓が取り払われ、後ろの志賀直哉の墓がよく見えるようになっていました。霊園全体、植木を刈り込んで、明るく見通しがよくなるようにしたようです。シェフの母(私の旧友)の墓のあたりも、すっかり空が広くなっていました。あちこち梅が咲いていましたが、桜は未だシルエットです。墓前に白いクロッカスを植え込んだ墓があって、満開でした。

一家で六本木へ出て、寿司を食べることにしました。宮古島では、魚の身が柔らかすぎて寿司に向かないので、これを楽しみに上京したのだそうです。六本木は私も50年前(東京五輪の翌年)に通勤したことがあるのですが、基本的に飲食店がぎっしり詰まっている街のたたずまいは、変わっていません。お腹一杯食べた後、根津美術館へ香合の展示を見に行きました。宋胡録や交趾、黄瀨戸、信楽などにいい物がありました。庭園の紅梅が鮮やかでした。

この3日間、シェフに付き合って食べ歩きをしました。胃腸が吃驚しているかも知れません。フレンチレストラン、ハンバーガーの有名店、鮪尽くしの店、寿司ざんまい―シェフは、厨房へ入る日には味見の舌が鈍らないために朝も昼も抜くのだそうで、休日はあれもこれも食べてみたくなる、と言っていました。

シェフの冒険

宮古島からフレンチ・シェフがやって来ました。38年前に亡くなった親友の遺児(40代半ば)です。私が住む町の飲食店をあちこち見て歩きながら、よもやまの話をしました。公務員共済の宿にあるフレンチ・レストランの話をしたら、ぜひ入ってみたいと言うので、ディナーを食べに行きました。古くからある宿で、窓の外には沈丁花が咲き始めています。

案内されたテーブルのセッティングを見て、まず度肝を抜かれました。大きな黒い皿の割れた破片が、ランチョンマットの上に横たわっている。最初の料理は、ちぎったパンにオリーブオイルのスポイトが刺さったものが、その皿の破片の上に置かれました。おそるおそる食すと、やや甘い。

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ついで、マッシュポテトを蚕豆大にまとめて揚げたものが1粒、直径20cm以上ある鉢に入って出されましたーそれから魚2種、蝦夷鹿のソテーなど、どれも大きな白い皿の片隅にちょこんと載って出て来るので、思わず「余白の美ね」と口走ってしまいました。最後にマロンのアイスクリームが枯葉を敷いたグラスに入って出され、直径2cmくらいのマドレーヌやマカロンがデザートでした。美味しかったし、終わってみれば、心配したより満腹感もありました。

ここの料理長は未だ30代らしく、宮古島から来たシェフは、「あのくらいの時が、料理人としては旬。冒険もし、こだわりもあるんですよ。僕もそうだった」と、説明してくれました。食事後、彼は「職人魂に火がついた」と呟いて、夜道を駅へ向かって歩いていきました。

 

座談会「古典のあり方」

國學院雑誌2月号に座談会「古典のあり方をめぐって」が載っています。賑やかで、しかしよく話が噛み合った座談会です。中国文学の川合康三さん、西洋文学の沓掛良彦さん、万葉集上野誠さん、欧米から来て日本文学を研究しているワトソン・マイケルさん、そして過不足なく一座を捌いている司会の河野貴美子さんという顔ぶれ。まず人選がよかったのでしょう。一読をお奨めします。

談論風発の観がありますが、前半が、古典にはもとからの古典と近代になって古典とされたものの2種がある、ということ、後半は、翻訳・現代語訳の問題が大きなテーマになっています。

また本誌には、千々和到さんが徳江元正さんの追悼文を書いていて、故人の面影が髣髴とします。

お問い合わせは國學院大学広報課(電話03-5466-0130)まで。

医療現場の会話術

下枝みちよさんの『医療現場のおもてなし会話術』(秀和システム 2017)という本を読みました。「たった一声で評価アップ!」という角書がついています。著者の肩書がメディカルケアコーチとなっているので、調べてみたら、今はそういう名のついた活動が、あちこちで行われているらしい。

看護師・介護士・病院の職員などに向けた実用書でもあり、医療を受ける際に感じるさまざまな歯がゆさの原因を納得させてもくれる本です。著者が家族の看取りや自身の罹病体験から、医療現場にはもっとコミュニケーション能力が必要だと感じ、また現場の人々もその問題が解決できればハッピーになれるのではないかと考えて書いたとのこと。内容は①最初のお声がけ ②場面別・解決コトバ ③患者の不安を取り除く魔法のコトバ ④不意の事態に冷静に対応 ⑤素晴らしい医療スタッフとして認められるために という風の5つの章立てになっています。

そこには、例えば「患者になって初めて患者側の気持ちがわかるようでは、本当のプロフェッショナルとは言えません。あなたが患者自身になった時、どんな想いでいるでしょうか?あなたが患者の家族になった時、どんな気持ちになるでしょうか?あなたの家族が亡くなった時、どんな言葉をかけられたいですか?(中略)患者側の想いをきちんと受け止められる、素晴らしい皆さんでいてください。そして、受け止めていますということをきちんと相手に伝えられる「会話術」を身につけましょう」といったことが、1行ごとに行替え、というスタイルで書かれています。

繰り返しや不適切な説明(例えばp121「スタッフ自身の実体験」開示は、患者側からは、同じ体験をした人への信頼が湧く、とすべき)もありますが、忙しい職場で鬱になる前に、一読すれば役に立つノウハウが詰まっています。

面接試験

女子短大に勤めていた頃、高齢の男性教員とペアで面接試験をしたことがありました。受験者の中に、パンタロンスーツを着てきた一浪生がいました。口頭試問は難なく終えたのですが、判定の際に相方が、面接にズボンを穿いてくるなんて非常識、と言い張って聞きません。仕立て下ろしだということは一目見て分かる服装だったので、私はかなり反論したのですが、女の正装はスカートだ、と頑強に主張されました。数年経って、パンタロンスーツはイギリス宮廷の正装でも通用、という新聞記事が出ました。

紙の試験だけでは不公平だから面接導入を、という意見は的外れだと思っています。面接はされる方だけでなく、する方の器量を露呈します。今は、入試の面接で訊いてもいい項目が非常に限定され(出自や家族、信条に関わる質問はNG)、却って面接官の直感(好悪)に左右されがちです。面接の専門家がやるならともかく、またどういう基準で可不可を決めるかがあらかじめ明確にされていない限り、入試の手段としては使うべきではないと考えます。

しかし、医学生進振り(進路決定)に当たっては、各人がほんとうに医師として向いているのかどうか、コミュニケーション能力と対人意識を中心に面接して貰いたい気がします。少なくとも医学部のカリキュラムに、そういう科目を組み入れて欲しい。外科医には手先の器用さも必要かも知れませんが、医師一般にとって、患者を人間らしく扱う姿勢と、説明能力(病状、予測、治療の選択肢に関する)とは不可欠でしょう。殊に余命をある程度選べるようになった今日、どこまで何が分かっているか、どれだけが本人の選択範囲か、きちんと説明して欲しい。

保険医療費を下げるために老年治療を制限する理屈をあれこれつける前に、まずは医療関係者の意識とコミケ養成のシステムを見直すべきです。しかも早急に。

 

雨月物語

島弘明さん校注の『雨月物語』(岩波文庫)が出ました。かつて鳥取大学を離任した際、後任が来るまでの集中講義を近世は長島さん、中世は佐藤恒雄さんにお願いしました(なんと豪華な顔ぶれでしょう!)。学生たちの評判は、とてもわかりやすい講義だった、とのことでした。

本書の解説もわかりやすく、要を得たものです。その示唆を受けて、「浅茅が宿」の、主人公が徐々に夢から覚め、廃屋で一夜を明かしたことを認識していく部分を読み直しました。何度か読んだことのある作品ですが、改めてじっくり読んでみたくなります。

凡例に底本(梅村判兵衛・野村長兵衛刊初版本)のルビ、句読点を訂したとありますが、ときどきおや?と思う箇所があります。版本の清濁があまりあてにならないことは承知していますが、「すさまじ」の「さ」は近世では濁音でしょうか。また、p27l4の「こそ」は、下の「今夜の法施に随縁したてまつる」にかかって強調するものだと思います。

滝沢馬琴とその周辺では、長門本平家物語を読んでいました。秋成も当然、源平盛衰記を読んでいたはず。長島さんの作った本文に導かれて、何十年ぶりかで秋成を楽しみたいと思います。