臨床死生学

東大の死生学・応用倫理センター主催の講演「長寿時代の臨床死生学・倫理学」を聴いてきました。死生学とは、「死生」を一体としてとらえ、人間が死生をどう理解し対処してきたかを考える学問で、その結果を応用して臨床現場で実践する領域が臨床死生学だそうです。会場は医療関係者や宗教学・倫理学の学生などで一杯でした。

1時間半の講演の主旨を端的にまとめてしまうと、点滴や胃瘻などのいわゆる延命治療はやめてもいい、やめた方がいい、ということになりましょうか。会場の多くの共感を得ていたようですが、家族を2人も見送った私としては、現実にはそういう看取りの環境が整っていないのに、怖いなあ、というのが正直な感想です。聴衆を方向づけようとするトークに、生理的反発を感じる瞬間もありました。

現状では、医師がどこまで丁寧に病状を説明し、終末期の患者の意志に寄り添ってくれるのか、また死へ向かっていく当人の気持ちはゆれうごき、不安で一杯(誰でも死へ向かって歩くのは初めての経験)ですが、家族と雖も24時間その気持ちに連れ立っていけるわけではないのに、そういう心のケア(患者と家族との両方)をしてくれる専門家は殆ど傍にいない。

医者にとって、治せないとか、治療を打ち切るとかいうことが敗北としか考えられず、その結果無意味な延命治療がやめられないことが問題なのは同感です。しかし生が個別的であるように、否それ以上に、死も個別的なものです。一律に「方針」とか「基準」とかで決まってしまうのなら、それまでの何十年の人生は水の泡のようなもの。殊に「フレイル(frailty)」という9段階のスケールを導入し、5以上を分岐点とする説には問題が多すぎると思いました。

 

近松研究史

原道生さんの「戦後近松研究史の一側面(その三)ー近松の会を中心に-」(「近松研究所紀要」72)を読みました。昭和26年夏の日本文学協会総会の報告や雑誌「文学」に掲載された広末保の言説が、戦後の近松研究史に画期をもたらしたととらえ、著書『元禄文学研究』(東大出版会 昭和30)を中心に、いわゆる歴史社会学派の旗手の1人であった広末の仕事とその影響を解析しようとしています。

『元禄文学研究』は去年、若い頃の蔵書を一括処分した時に売ってしまいましたが、永積安明・石母田正西郷信綱らと共に名文家揃いの歴史社会学派の筆頭として愛読したものでした。原さんは、それらの人々にも共通する問題点をいくつも取り上げていますが、中でも近松が「民衆のなかに発見した素朴なひたむきさ」を「封建社会の現実に対して鋭く対立させることによって」悲劇をつくったとし、「敗北の形ではあったが人間性のための主張を」なしえているが故に、民衆の勝利に到らない悲劇文学を高く評価したこと、義理を「国民的英雄の人間性」と不離なものであり、必ずしも「人情に反する反動的要素」とはいえないと広末が論じたことなどは、軍記物語の分野にも通じるものがあります。

歴史社会学派の功罪は、戦後の国文学研究史で無視して通れないものです。原さんのようにゆっくり、流行理論の威を借りずに自分自身の言葉で、検証していけること(誰にでもできるわけではない)が羨ましく思えました。歴史社会学派に憧れ、彼等に育てられた者の手によってその思索を丁寧に洗い出すことが、いま必要なのかもしれない、それこそが供養になるのだという気もしました。が、さて・・・

 

軍記・語り物研究会

久しぶりで軍記・語り物研究会に出ました。発表は藤田加世子さんの「『平家物語』の物語系図について―宮内庁書陵部蔵『平家物語系図』と『平家花揃』―」、小助川元太さんの「儀式の道具としての軍書」の2本です。参加者もけっこう多く、多士済々の感がありました。

藤田さんの発表は、物語系図の方に比重がかかっている、もしくは「花揃」を系図と結びつけることにやや性急なように見受けました。「花揃」自体に、未だ未だ探求すべきことがあると思います。40年ほど前、日本文学を縦に貫いて(宇津保物語から坪田譲治まで)、人物を花に譬える作品を眺めようとしたことがあり、京都の短大で1年間講義したこともありました。もはや講義ノートをもとに原稿化する根気はありませんが、花づくしの系譜を『平家花揃』や遊女評判記を題材に論じるのは面白かったなあと、今さらのように思いました。

小助川さんの報告は、大名文化の一端を宇和島伊達家文書を使って覗かせてくれました。若い頃、国文学研究資料館の文献調査員を仰せつかった際の体験(旧藩の文物を調査した)や、このところ親の遺品の整理をしたり(愛蔵品の目録を作った)、美術館で室礼の展示を観たりする経験と絡んで、興味深く聴くことができました。

この研究会も歴史が古くなって、いろいろ問題も出て来ているようですが、昨日の雰囲気ならば風穴を開けていくことはできるかもしれない、と思いました。少なくとも、闊達に学問の話ができる場にしておきたいと思います。この日はマンションの管理組合総会、JRの切符購入など、人に疲れて、帰宅後すぐ寝てしまいました。(4月23日)

研究発表会

母校の国文学会で院生の研究発表を聴きました。石井悠加さんの「鳥羽殿の和歌」は、和歌の催しが行われる場としての鳥羽殿の変遷をたどり、権力者の栄華と失脚に繰り返し関わった広大な人工空間に、和歌がもたらした意味の大きさを考えようとしたもので、シンプルに作られたレジュメが見やすく、聞きやすい発表でした。2本目の『西鶴名残の友』巻三第七話の類話を博捜した発表は、レジュメに目次(発表意図と構成)をつけておいた方が、聴衆にも分かりやすく、発表者自身もまとめやすかったのではないかと思いました。

鳥羽殿は海上交通路にも近く、自由な上皇の身分であれば、都内の御所にいる時とは異なった人や文物との交流もあったのではないかと思われます。和歌に限定せず、この空間に行き交った文化を描き出していくと面白いかも、と思いました。

正門の近くの四阿の藤棚は今が満開でした。かつては四阿は2つ並んでいたと思いますが、いつの間にかここだけになってしまいました。70年以上は経った藤です。なかなか花の盛りに遇うことができず、足下に散らばった落花を見ることが多いのですが、今日はつくづくと眺めて帰りました。

 

そろそろ物干し場のハンガーを隠す季節になりました。巣作りする鴉に盗まれるからです。都会には手頃な枯れ枝が見つからないためか、針金製のハンガーを集めて電柱の上などに巣を作るらしい。時々感電して停電事故の原因になることもあるそうです。ワイシャツなどを干してあっても、上手に首を振って振り落とし、ハンガーだけを持ち去る姿が目撃されているとのこと。

我が家でもある年、なぜか毎日ハンガーの数が減っていき、朝早くベランダでがさごそ音がするので鴉の仕業と気づきました。鉢植えの花の首が食い切られたり、薔薇の蕾をしゃぶった痕があった(大きすぎて食い切れなかったらしい)こともあります。唾液まみれになっている蕾を丁寧に水で洗って、どうにか助けました。

図々しい鳥たちには手を焼きます。世田谷では鵯、小石川では護国寺の鳩に悩まされました。鳩は時々、どこからか食いかけの花を持って来て置いていくことがあります。何か下心があるわけではないのでしょうが、つい叱りたくなってしまいます。こんなもので騙されないよ、と。

 

炊き込み御飯

子供の頃、季節ごとの炊き込み御飯が食卓に上りました。今の季節ならグリンピースを混ぜた塩味の豆御飯。醤油味の竹の子飯。秋なら菊の花びらを混ぜて酢飯にした御飯。松茸御飯は醤油味で栗御飯は塩味。銀杏に鶏(または油揚げ)や干椎茸や人参を入れた五目飯もあります。どこの家でもそうするものだと思っていましたが、違うらしい。隣家から、故郷の味だからと、ひじきや枝豆など種々炊き込んだ御飯を頂いたこともありました。新潟のご出身だったと思います。

草餅にするには伸びすぎた蓬の柔らかい芯を、刻んでお粥に混ぜると美味しい。鶏の挽肉か白身の魚を足すと滋養食になります。

名古屋に住んでいた頃、茶の木を生垣にしたお屋敷があって、あまりに新芽が美しいので小枝を失敬して帰り、コップに挿しておいたところ、台所が芳香でいっぱいになりました。しかし翌朝、香りは失せ、お粥に混ぜてみましたが目に綺麗なだけでした。

燕子花図屏風

根津美術館で恒例の尾形光琳「燕子花(かきつばた)図屏風」展示を観て来ました。いつもより混んでいましたが、「行楽を楽しむ器ー堤重と重箱」の展示や「初夏の茶の湯」の展示も楽しめました。後者に出ていた独楽香合(17世紀、東南アジア)と片口水指(16~17世紀、ヴェトナム)が素敵で、断捨離実施中の身であることも忘れ、欲しいなあと思ってしまいました。5月14日まで。

池の燕子花は今年は開花が遅れているそうで、庭園には新緑に眩しい日差しが輝いていました。同年の友人と共にカフェでショートケーキを注文して(若者連れの時はもっと大人のケーキを選ぶのですが)、仕事の打ち合わせを兼ねて老後生活の話をして帰りました。若葉の美しい赤坂御所や豊川稲荷の脇をバスで通り、赤坂見附の駅へ降りようとしたら、未だ学生気分が抜けないのか、あちこちに道をふさいでお喋りしている新入社員の群れがいました。