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朝の楽しみ

朝食はパン食です、朝に米食を摂ると終日体が重い気がするので。スープと果物とソーセージ、それに開腹手術をして以来必ずヨーグルトを。入院したときに辛かったのは、朝、きりっと冷えた新鮮な果物を丸1個、という習慣が崩れたことです。誰にでも、そういう一種の儀式があるのでは。

プレーンヨーグルトに砂糖でない甘味を入れることにしています。蜂蜜、フルーツソース、ジャム、コンポート・・・大きな食料品店へ行った時は、目新しい甘味を選ぶのが楽しみになっています。あまり高価でなく天然食材で、しかもちょっとおしゃれなものを。現在はマロンスプレッドですが、甘みがやわらかくて、粘らないヨーグルトによく合う。正月の黒豆の煮汁もよく合います。白いヨーグルトに墨流しみたいな模様ができます。

巴里へ調査旅行に行った時。安宿でしたのでホテルの朝食はクロワッサンと珈琲と、林檎かオレンジ1個だけ。でもそのクロワッサンの美味しかったこと。ああ巴里にいるんだ、としみじみ思いました。

あるく球根

本2冊の編集・校正が終わり、我が家の鉢の草花にも目が行くようになりました。葡萄ムスカリが咲き始めています。何故か葉が長く伸びてしまうので、饂飩の中から顔を覗かせた小蝦のような感じですが、冴えた青紫の花房が可愛い。

ムスカリは1年でたくさんの子球を作るので、花が終わって掘り上げても仏舎利のような小さな子球が土中に残り、そこここから芽を出します。草ぼうぼうで路肩に放置されているプランターなどにそっと播いておき、3年も経つと一人前に花をつけるようになります。近所の小学校の塀際に咲いているムスカリとクロッカスは、こっそり私が植え込んだのですが、抜かれたり踏まれたりしながら3年目に花をつけた時は、心中快哉を叫びました。

不思議なのは球根が翌年芽を出す時、去年の位置とはすこしずれていることです。印をつけているわけではないので、気のせいかなとも思うのですが、やっぱりうごいている。球根は冬の間、土の中で歩くのでしょうか。

中世物語資料と近世社会

伊藤慎吾さんの『中世物語資料と近世社会』(三弥井書店)が出ました。中世の物語、殊に草子や絵巻として制作されたものたちが、近世になって社会の中でどのように継承されていったかを考察した、528pという大部の本です。伊藤さんはすでに『室町戦国期の文芸とその展開』『室町戦国期の公家社会と文事』の2著を出し、精力的、かつ好奇心にみちみちた、マイペースな仕事ぶりが際だった人です。愛妻家でもあります。調査旅行に行った時、何だか慌てているので、どうしたと訊くと、カードを忘れたので妻への土産が買えない、と深刻な顔でした。

中世物語が資料として使われ、新たな読み物を生み出し続けた近世前期という時代の文化を、多様な角度から描き出しているところが本書の注目すべき点です。単なる資料博捜に留まらず、それらを生み出し、また享受・保存した環境を論によって再現しようとする姿勢は、今後も期待できます。思えば、恩師の故徳江元正さんの学統が脈々と承け継がれているといえるでしょう。

近世寺社伝資料

『近世寺社伝資料『和州寺社記』・『伽藍開基記』』(和泉書院)が出ました。近世初期に成立した、大和及び畿内諸国の寺社縁起集成2本を翻刻し、解説を付した本です。永く地道な活動を続けて来た神戸説話研究会の活動成果ですが、こういう出入り自由な研究会は、支える若手中堅と共に、核となる「おとな」がいることが重要なのです。名古屋の故島津忠夫さん、そして神戸の池上洵一さんがそうでした。もう若手とは言えないのでしょうが、内田澪子さんや本井牧子さんらが熱心に活動を支えてきたようです。

『和州寺社記』には森田貴之さんの解題があり、縁起集から名所記・地誌へと変貌していく作品であることが分かります。リライトや取り込み・吸収による創作を経て多くの類似作品が流布していくのは、近世文化の特徴でもあります。

『伽藍開基記』には山崎淳さんの解題があって、人物中心の僧伝のかたちを採りながら『元亨釈書』の影響下に、地域ごとの日本仏教史を目指そうとしたのではないかと述べられています。

資料として有益なものですが、願わくは解題中の地名・寺社名・人名など固有名詞に、できる範囲で振り仮名をつけて欲しかったなあ。

確定申告

税務署へ確定申告書の検算・提出に行きました。往きには初めて近距離タクシーに乗ってみました。タクシーに乗る度に、料金制度の改訂後利用者の流れが変わったか、アンケートしてみるのですが、毎度「いやあ、変わらないねえ」という返事です。2km以内でタクシーに乗るのは何か事情がある時で、6km以上の利用者にとっては結局値上げでしょう。知人に、値上げするのなら上げると言って欲しい、朝三暮四みたいな話は御免だと言ったら、高速道路料金でも似たような改訂があったとのこと。油断のならない御時世です。

帰路はとぼとぼ歩いて帰りました。現職中は、確定申告の帰りにはちょっと豪華な昼食を摂ることにしていたの(税金を払うためだけに働いてきたような気がして、腹立たしいから)ですが、もう所得も税も還付金もすべて規模が小さくなったので、ルオーに入り、小さなケーキと珈琲をゆっくり味わって帰りました。

税務署の入り口には「電子政府実現のため電子申告をお奨めしています」という看板が出ていましたが、賛同する気になれません。電子政府?ヘンな日本語です。今でさえ常識外れの土地払い下げなどが行われているのに、この上電子化したら、私達の肉声を聴くことができるでしょうか・・・

源平の人々に出会う旅 第3回「京都市伏見・城南離宮」

 鹿ヶ谷の変以後、反平家の動きが活発になると、清盛は福原(神戸市)から軍勢を率いて上洛し、太政大臣以下40余人を解官、関白藤原基房を備前へ配流、後白河法皇を鳥羽殿(城南の離宮)へ幽閉します(治承三年(1179)の政変)。

【城南宮】
 鳥羽殿は白河・鳥羽両上皇により造営・増築され、南殿・北殿・東殿・泉殿・馬場殿・田中殿などと名付けられた御所からなる広大な離宮です。
 院政期は熊野詣が盛んとなり、白河・鳥羽・後白河上皇も度重なる御幸を行っています。馬場殿付近にある城南宮の境内には「熊野詣出立の地」の案内板があり、ここから船で熊野に向かったようです。

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【成菩提院塚陵墓参考地】
 大治4年(1129)、白河法皇崩御すると東殿付近の成菩提院陵に葬られました。近くには成菩提院塚陵墓参考地がありますが、誰の陵墓か分からないようです。
 保元元年(1156)6月、鳥羽法皇が危篤に陥ると、寵妃であった美福門院藤原得子は成菩提院の御所で出家したと『保元物語』に記されています。

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【安楽寿院】
 安楽寿院は鳥羽上皇が東殿に建てた御堂を前身としており、鳥羽天皇陵や近衛天皇陵が隣接しています。保元の乱で讃岐へ流された崇徳院が、自筆で書いた五部の大乗経を安楽寿院の故院の御墓に置いてほしいと懇願するも叶わず、「この経を魔道に廻向して、魔縁と成って遺恨を散ぜん」と自らの血で誓状を記し、生きながら天狗になったとされます(古活字本『保元物語』)。そのため、清盛のクーデターや後白河法皇の鳥羽殿幽閉は、崇徳院の怨霊の仕業と考えられたのです。

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【冠石】
 鳥羽上皇離宮の増築を行う際、この石に冠を置いたと伝わっています。鳥羽天皇陵の近くにあります。

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〈交通〉地下鉄烏丸線近鉄京都線竹田駅下車
                 (伊藤悦子)

春霞

東京の春は午後から曇る、という書き出しで作文を書いてひどい点を貰ったことがあります。高校時代、英語の教科書で教わった「意識の流れ」という手法を試みた心算だったのですが、国語教師からは趣旨不明瞭な文章との批評を頂戴しました。今でもこの季節には、あの一文を思い出します。

朝は晴れていたのにいつの間にか薄曇りのような空になるのが、この季節特有の天候ではないでしょうか。晴天なら朝から夜まで雲一つ無い青空、という日々が3ヶ月続いた東京で、そろそろ春の訪れを感じる兆候の一つです。鳥取に勤めていた頃、春休みに入って帰京する際に羽田まで本土を縦断すると、霞の中から日本アルプスの山頂が頭を覗かせ、水墨画そっくりでした。飛行機もない時代にどうしてこの景色を想い描くことが出来たのだろう、と不思議な気持ちになりました。和歌の世界でしきりに春霞が詠まれる理由が、納得できる気がします。

最近の天気予報では、花粉が飛んでいると説明するようですが・・・