鹿ヶ谷の変以後、反平家の動きが活発になると、清盛は福原(神戸市)から軍勢を率いて上洛し、太政大臣以下40余人を解官、関白藤原基房を備前へ配流、後白河法皇を鳥羽殿(城南の離宮)へ幽閉します(治承三年(1179)の政変)。
【城南宮】
鳥羽殿は白河・鳥羽両上皇により造営・増築され、南殿・北殿・東殿・泉殿・馬場殿・田中殿などと名付けられた御所からなる広大な離宮です。
院政期は熊野詣が盛んとなり、白河・鳥羽・後白河上皇も度重なる御幸を行っています。馬場殿付近にある城南宮の境内には「熊野詣出立の地」の案内板があり、ここから船で熊野に向かったようです。
【成菩提院塚陵墓参考地】
大治4年(1129)、白河法皇が崩御すると東殿付近の成菩提院陵に葬られました。近くには成菩提院塚陵墓参考地がありますが、誰の陵墓か分からないようです。
保元元年(1156)6月、鳥羽法皇が危篤に陥ると、寵妃であった美福門院藤原得子は成菩提院の御所で出家したと『保元物語』に記されています。
【安楽寿院】
安楽寿院は鳥羽上皇が東殿に建てた御堂を前身としており、鳥羽天皇陵や近衛天皇陵が隣接しています。保元の乱で讃岐へ流された崇徳院が、自筆で書いた五部の大乗経を安楽寿院の故院の御墓に置いてほしいと懇願するも叶わず、「この経を魔道に廻向して、魔縁と成って遺恨を散ぜん」と自らの血で誓状を記し、生きながら天狗になったとされます(古活字本『保元物語』)。そのため、清盛のクーデターや後白河法皇の鳥羽殿幽閉は、崇徳院の怨霊の仕業と考えられたのです。
【冠石】
鳥羽上皇が離宮の増築を行う際、この石に冠を置いたと伝わっています。鳥羽天皇陵の近くにあります。