語感

先日の池袋デパートのストライキについては、このブログにも書きましたが、昨日の「天声人語」でも取り上げられ、1951年、三越デパートのストライキの際に流行った「三越にはストもございます」という語が引かれていました。コラムの主旨は、ストは労働者の権利として保障されている、不当な扱いには堂々と行使すればいい、ということでしたが、一読後、何か違和感がありました。

筆者は、国内ではピケラインを見たことがない世代だそうで、ストと組合結成は労働者の権利というイロハも机上の知識なのでしょうか。かつて百貨店全盛の時代、商店や百貨店にも格があり、東京の街にもランクがあり、日本橋のデパート、中でも三越は最上ランクでした(後年、池袋に百貨店が並立したこと自体がニュースだった)。「三越にはストもございます」という流行語の裏には、緊張する労使関係も窺える、とあるのですが、ここに含まれた揶揄の気分、丁寧語への皮肉を筆者は感じ取れていないらしい。

未だ戦後の物資不足の時代、「百貨店」の文字通り、何でも揃えてあり、しかも丁寧な接客がデパートのコンセプトで、その中でも最上ランク、上流階級相手の三越の店員が、埃と汗にまみれた労働者階級と同じようにストライキとは(時代も変わったもんだ)、という皮肉が籠められていたと、私は記憶しています。

皮肉や反語が読めないもの書きが増えて、やりにくい世の中になりました。微かに仕込まれた皮肉を読むのは言葉を扱う大人の特権的快楽ですし、それが解る者同士の無言の連帯感は有意義です。ジャーナリストなら、そこを嗅ぎ取る感覚が必須。

9月2日付「天声人語」はこう結ばれていますー「私たちには、ストもございます。」あの新聞社ではもしかして、社長に向かっては最高敬語使用なのかも。