武者は自転車に乗って

『ともに読む古典 中世文学編』が出来上がりました。笠間書院の新刊予告で冒頭の6頁を試し読みできます。そろそろ春休みに何を読もうかとお思いの先生方が手に取れるように、という日程で進めてきたのですが、本は出来たものの流通網に乗せるのに手間取って、店頭に出るのは28日以降になるもようです。

キャッチコピーは「ここには研究者の本気と現場の教師の本気とが詰まっています」(小助川元太)。活字も大きめに組んで貰いました。表紙はちょっとシュールな鎧武者の図。絵の面白さと甲冑の年代とがなかなか合わず、やっと見つけた1枚です。

編者の私はこの本で、教育学部の教え子たちから出された宿題に答えた心算でいます。執筆者それぞれにも、籠めた思いがあるでしょう。現場の先生方の読後感を伺いたいと思っています。読者カード以外にも、ツイッターで版元へ投稿して頂き、ひろく交流が図れれば幸いです。

古唐津

出光美術館へ古唐津展を観に行きました。180点近い展示品は素晴らしく、唐津(からつ)にもいろいろあるのだということが分かりました。殊に絵唐津文三耳壺(柿の木を描いた壺)や絵唐津葦文四方口向付(葦を描いた食器)など、ささっと描かれた渋い鉄秞の絵の線がいい。また朝鮮唐津耳付水指(水さし)などのように、流れ落ちる釉薬が混ざり合いながら思いがけない発色を出しているのも見飽きません。自分が管理保存せずにこういう品々を眺める(できれば使いたいが)のは、この上ない贅沢です。3月26日まで。

皇居のお濠の上空には鴎がしきりに飛び交っていました。都心に鴎が乗り込んできたのはいつからでしょうか、ちょっと不思議な眺めでした。これなむ都鳥、と思えばいいわけですが。帝劇の地下の喫茶店で一服して帰りました。

横川唐陽、森敦

雑誌「解釈」の1・2月号の研究余滴「半井桃水と横川唐陽」(佐藤裕亮)を読みました。漢詩人横川唐陽(実名徳郎 慶応3~昭和4)は陸軍の軍医を勤め、森鴎外とも交遊があった人です。佐藤裕亮さんにはすでに『鴎外の漢詩と軍医・横川唐陽』(論創社    2016)という単著があり、このコラムは文字通り、その研究の余滴です。横川唐陽の作品は『明治漢詩文集』(筑摩書房)にも収められているそうで、近代日本の知識人たちにとって漢詩文は身近な教養の一つであり、もっと研究が進められていい分野なのですが、未開拓のようです。

同誌には井上明芳さんの論文「森敦「鳥海山」論―読みがたさの生成―」も載っています。森敦が昭和49年、60代(当時は老人の域内だった)で、小説「月山」で芥川賞を獲った時には、発表誌を買って読みました。もう内容は殆ど忘れてしまいましたが、全編に漂う死の気配だけは覚えています。鶴岡の調査旅行のついでに六十里越えのバスに乗り、田麦俣の集落へ行ったこともあります。青空に群れ飛ぶ岩燕、注蓮寺のミイラ仏の迫力は、今もありありと眼に浮かぶくらいです。サンダル履きで月山の途中まですたすた登りましたが、真夏の明るい日差しの中にも次第に路傍仏や呪句を書いた幟が増え、ふと、このまま行方不明になっても不思議ではないような気になり、引き返しました。それまでは芭蕉の「奥の細道」で読んだ出羽三山のイメージだけだったのですが、まったく違う体験でした。

 

明翔会第二回研究報告会

明翔会の第二回研究報告会が駿河台記念会館で行われました。研究発表10本と講演1本、ぎっしり詰まった時程でしたが世話役の準備がよくて、一通り終えられました。聴衆は30人強、分野の全く異なる会員相互も質疑応答ができ、有益でした。

列女伝を教材に使って、高校国語の授業でジェンダーを討議させたという研究報告には、「国語」という教科のアイデンティティを考えさせられました。

駿河台では早咲き種の桜や辛夷が花をつけ、午にはニコライ堂の鐘が鳴って、日曜もさまざまな研修が行われているらしく、学生街の早春らしい一日でした。

出版記念会

『明日へ翔ぶ―人文社会学の新視点ー 4』が出ましたので、東京ステーションホテルで出版記念会が行われました。さまざまな分野の新進研究者や博物館学芸員・高校教諭・会社員・公務員、起業家もいて、会場は20代30代のパワーで満杯でした。来賓の小長啓一さんは田中角栄の思い出話をされ、版元の風間書房からはこれからも処女出版を応援します、という心強い挨拶がありました。

明翔会では随時、OBたちのプロフィールを紹介していきます。

 

天国のお菓子

お土産に小川軒のレーズンウィッチを頂きました。子供の頃、父が持ち帰って食べさせてくれた時は、世の中にこんな美味しい物があるのかと思いました。今では似たようなレーズンサンドクッキーがあちこちで出ていますが、当時は小川軒だけ、1日に作る数も限定で、滅多に食べられないものでした。冷たいクリームとさくさく崩れるクッキーと、上に載ったアーモンドの薄片が、西洋へのロマンティックな憧れをそこはかとなく感じさせました。

幼年時に感激した味覚が一生、特別な記憶となるのは多くの人が書いています。殊に未だ砂糖が貴重品だった時代でしたから、もっと「高級」なものが一杯あることを知った今でもなお、小川軒のレーズンウィッチは幸福感の象徴です。

お菓子で言えば福岡銘菓鶏卵素麺(日持ちがしないので県外では殆ど知られていません。鶏卵の黄身と砂糖だけで作られた、黄金に輝くお菓子です)、岐阜名産すやの栗きんとん(おせち料理ではなく、栗100%の和菓子です)もそうでした。いわば「天国のお菓子」という記憶です。未だ日本が戦後復興から間もない頃のことでした。

桜の代替わり

ネットを調べたら、実生の桜を育てている人は多いのですね。やはり日本人にとって桜の木は特別なんだ、と今更のように感心しました。

宇都宮に勤めていた頃、図書館増築のため大島桜の古木が伐られることになりました。惜しんでも保存はできないとのことで、藪蚊に食われながら落ちた実を拾い集めました。株の周囲に小さな芽が何本も出ていたので、毎年たくさんの実が落ちるのに、どうして今年に限って芽が出たのだろうという話をしたら、古くからいる門衛さんが「木は自分の寿命を知っていて、枯れる前に次代の芽を育てるんですよ」と教えてくれました。聞いていた学生が「親木にもう栄養を摂る力がなくなるからでしょ」と言ったので(科学的にはそちらの方が正しい!)、つい、「おまえのように言うとつまらなくなるなあ」と言ってしまいました。

この大学には農学部があり、百年近くキャンパスが移動していないため、さまざまな実生の木を見ることができました。欅の実生が芝生の縁に沿ってまるでスプラウトのようにびっしり生え、全部大きくなったらどうなるんだろう、と心配しましたが、職員が鉢に植えて盆栽に仕立てたようです。下野の雑木林の風情になるのでしょう。

大島桜の実は脇門の空地に播いておきましたが、どうなったことやら。