スポーツマンが抱負を述べる際に、この頃よく、勇気と感動を「与えられるように」がんばります、などと言います。かちんと来ます。殊に、何もかも周囲の支えがあって成り立つ高校生スポーツなどでは、指導者は何を教えてんだ、勘違いさせるな、と言いたくなります。
スポーツマンは、まず自分自身のために、記録や順位に挑戦して貰いたい。それが、支えている人たちの喜びとなり、結果としてファインプレーが感動を生む。他人に見られるため、勇気や感動を「与える」ために、リスクを冒して人体の限界に挑むのなら、見る方からはお断りしたいと思います。どうしても言いたければ、「見て、喜んで頂けたら嬉しいです」と言いなさい。
地方公務員のまま自己流でマラソンに挑戦していた若者に、声援が集まったのは、本人が感動を「与えよう」としたからではなかったでしょう。自分自身の目標目がけて、自分の条件の中でがんばる姿に、「見る側の感動があった」のです。
五輪などに日本代表として出場して敗れ、あかるく「楽しめました!」と言うスピーチにも、ちょっと白けます。言うなら、その後に一言、ありがとうございました、とつけ加えて欲しい、そうすれば一緒に楽しめるのに。あ、そうそう、勝って帰ってきたら、皆さんのおかげです、なんて言わなくていい。私の力で勝ちました、と言って下さい。