ノーベル平和賞が日本の原水爆被害者協議会(被団協)に授与されるとのニュースは、いまこの時機に、ということが大きな要素です。核を脅しに使う権力者、平然と核施設攻撃を説く大統領選候補者、そしてなし崩しに非核三原則を骨抜きにしていこうとしている日本の政治家。反核運動体でなく被害者団体であることにも意味がある。
ノーベル賞の中でも平和賞は、政治家に与えられることが多いので、その時は受賞に価していても、その後の歴史の流れの中で、いやあれは・・・となる場合が少なくなく、日本でも50年前の受賞者を思い浮かべると、賞の権威には疑問符がつきました。しかし今回は絶妙のタイミング、絶妙の選考だったと思います。
私が深く衝撃を受けたのは、1952年8月6日号のアサヒグラフでした。問いかけるようにこちらを向いて横臥する白骨の写真を、今でもありありと思い出すことができます。調べると、GHQの検閲がなくなって初めて出すことができた特集だったらしい。70万部売れたと言われています。自身で長崎を訪れたのは学部3年の春休み、広島は夏休みでした。1965年です。長崎は悲しみの遺跡、広島には強いメッセージ性があることを、その時感じました。その後も広島には何度も行き、その度に原爆ドームへは「お参り」しました。
中学時代には佐々木禎子さんの折鶴募金があり、原民喜や大田洋子、峠三吉の作品も読み、学生時代から30代にかけては、毎夏、短い距離でも平和行進に入りましたが、原水協と原水禁の分裂の辺りから、参加する場がなくなりました。つまり反核運動は、日本人なら当たり前、という世代だったのです。
授賞理由の末尾に、日本では次世代に被爆体験が受け継がれている、とあるのに注目しました。語り継ぐ意志が大事、と告げられたことに。