有楽町で

先日、夕食後にフランク永井の特番を視ました。筑豊出身の元フォーク歌手が司会する番組です。歌謡曲を敬遠していた私も、三橋美智也とこの人だけは一目置いていました。生粋の歌謡曲を歌いながら異種の歌曲に挑戦していたところが気に入っていたのです。

関西資本のデパートの開店に伴うCMソングとして作られたことで有名な「有楽町で逢いましょう」が流行ったのは、昭和32(1957)年。翌年の正月4日、我が家の応接室でこの歌が歌われた時は、家族にとって一種の事件でした。毎年仕事始めの夜は、部下を連れて帰宅した父が宴会を開き、最後には酔漢たちの合唱が始まるのですが、それまでは「ああ堂々の輸送船」(「暁に祈る」)といった軍歌が主で、「花も嵐も踏み越えて」(「旅の夜風」)が歌われた年もありました(上司の池田勇人の愛好曲だったことを、最近知りました)が、何と言っても「有楽町で逢いましょう」のリフレーンと手拍子が響き渡った時は、時代の歯車が一つ回った、という感があったのです。

特番司会者の解説では、「ビルのほとりのティー・ルーム」とか「今日のシネマはロードショー」という歌詞が当時では斬新だったそうですが、一方で「濡れて来ぬかと」(私は「小糠雨」の掛詞だと思っていた)、「雨もいとしや」などの古くさい言い回しもあり、まさに戦後復興から所得倍増の時代へ入っていく転換期の歌でした。

改めて彼のヒット曲を検索してみると、「羽田発7時50分」「西銀座駅前」「こいさんのラブコール」(1958)、「東京カチート」(60)、「君恋し」(61)などは印象に残っていますが、進駐軍仕込みと言われたジャズの風味は、黒人音楽のビートに慣れてしまった私たちには些かもの足りない。抑制的な低音と包容力を感じさせる目元とが、男性の魅力の頂点に思えたことが、はるかに懐かしく思い出されます。