開かれた言葉で

荒井祐樹さんのコラム「生きていく言葉」(朝日新聞朝刊隔週水曜日連載)のことは以前にも本ブログに書きましたが、昨日は「「開かれた言葉」を探して」という題でした。荒井さんは障害者文化論が専門(そういう分野があることは荒井さんの文章によって知りました)で、大学では近現代文学を講じているようです。障がいと共に生きる人たちからその経験を聞き取り、そこから研究を展開していく場合が多いという。

院生時代、学術論文は何故難解な言葉で書かなければならないのか、と真剣に悩んだことがある、と10月19日付のコラムに書いています。荒井さんは論文を書いた後、協力者に報告に行くが、難解な文章を持参して、読んでくださいとは言いにくい、というのです。アカデミズムと関わりのない人にも面白く読んで貰える論文を書きたいと考えて、平易な言葉で論文を書いて学術雑誌に投稿したら、「論文として重みが足りない」という評価で採択されなかった。そこで論旨を変えずに文体を堅くし、参考文献を付け足して再投稿したところ、すんなり受理されたのだそうです。

今となっては、文章にはそれぞれ相応しい体裁があるのだということは解るが、それでも「開かれた言葉」で学術を語りたい、それは一体どんな言葉なのか、今でもそれに悩んでいる、という内容です。

これは老若、分野に拘わらず、ひろく研究者が考えるべき問題です。堅い漢語や煌びやかな外国語の用語が鏤められているが、読み終わって、結局言っていることは「ふつう」のことだな、という論文によく出遭います。一方で、あまりに一人称的な文体にもうんざりさせられるし、緩すぎて対象に迫れていない文章もある。やはり、誰に読んで貰って誰に批評して貰いたくて書くのか、それが肝心、ということかな。