通貨切り替え

一昨日から至急の仕事があって半徹をしました。どうにか終わったので、夕食後ぼんやりNHK-TVを視ていたら、ニュースキャスターが那覇国際通りから、沖縄特別予算のために沖縄の経済が育たない、という報告をしていました。続く裏話発掘番組では、復帰当時のドルから円へ通貨交換のドキュメントが流され、未知の話題に見入りました。

学部生の頃、沖縄から来ていた同級生は「国費留学生」でした。よく時事問題の議論をしましたが、彼女はごりごりの代々木派で、一旦意見が一致しても翌日は上部の指令で意見が変わる。彼女からすると、貴女は説得しても意見が変わらない、というわけで親しくはなれませんでした。しかし東京に雪が降った日、一晩中寮の庭で雪だるまを作っていたという噂を聞き、ほのぼのとした気持ちになりました。復帰実現まで、私は彼女に言われた通り、手紙の宛名には「沖縄県」と書きました。

1972年、私は大学院最後の年でした。学生集会でも、反安保のデモ行進でも「沖縄を返せ」をよく歌いました。歌いにくい、硬い歌ですが、最後のリフレーンに入る時には地鳴りのように、会場中の声が盛り上がってきたのを覚えています。

1946年に本土が経験した通貨切り替え(デノミネーション)は預金凍結を伴う、強烈なものでした。私は未だ幼児でしたが、紙幣に捺されたゴム印を見た記憶はあります。22歳になった誕生日に、私は父から古めかしい預金通帳を渡されました。1945年に亡くなった母が、22年定期を作っていたのです、娘が4年制大学を了えた時に下ろせるように。結婚か留学資金の心算だったのでしょう、額面は¥1000でした。

沖縄は30年遅れで終戦を迎えたのです。そのずれが本土並みの戦後復興、地域創生に正しく繋がらず、いま沖縄自体にも迷いがある。沖縄の未来をどう設計すればよいのか。