短詩形で祈る平和

日ごろから、日常詠としての俳句や短歌がどれだけ時事に対して批評性を持てるのかに関心があるので、ここ3週間の朝日俳壇・歌壇の当選作に注目してみました。戦争詠は当然ながら次第に増え、切実さが増していますが、選者によって差異があり、投稿歌壇(俳壇)は選者との対話なのだと感じました。4/17付では自らの過去の記憶と重ねて詠まれた作にリアリティがあり、短歌の方が思想性を露出しやすいようでしたが、次第に俳句にもすごみのある作が目に止まるようになってきました。例を挙げます。

兵役を覚悟せし過去葱坊主(稲井夏炉) 17 

四月馬鹿みんなイワンのばかとなれ(額田浩文) 17

戦争は「始まる」ではなく「始める」であるとつくづく思う如月(篠原俊則) 17

氷点下堪へて流るる春の水戦車が砕く凍土悲しき(内藤弘子) 17

不発弾出でし校庭入学す(小谷一夫) 24

人類の居るこの星の寒さかな(馬目空) 24

太陽は大円となり沈みゆきウクライナの地を照らしに向かう(松浦知恵子) 24

こんな時に不謹慎だと迷彩の服着る我を戒める母(池田桂子) 24

戦争のはらわた晒す春の泥(杵渕有邦) 01

戦争をしない生きもの春の野に雲雀と燕がこぼすさえずり(篠原俊則) 01

しき色萌ゆるイ麦はつか黄金の波にりゆけ(小山佐和子) 01

俳句では、一見批評性がないように見える、あるいは寓意に受け取れる作もあり、その方が却って衝迫力を持つこともあります。最後に挙げた短歌は折句になっていて、言霊の力を担う形式に託した祈りとでもいうべきでしょうか。