構成員の義務

同一労働同一賃金正規雇用も非正規雇用も仕事内容と量が同じなら、同じ給料を貰えるはずだ、という主張には概ね賛成しながらも、最終的にちょっと引っかかることがあります。話は飛躍するようですが、産院で取り違えられて一緒に育った血の繋がらない兄弟を、相続の際に排除するよう訴えた事例にも、同じく引っかかりました。

何故なら、組織でも家庭でも、正しく維持・運営していくためには各構成員にも責任があると思うからです。戦後民主主義最後の世代である私たちは、そう考えて育ちました。正規雇用と非正規雇用の相違は、前者には組織に対する責任(経営者とはまた別の、現場の眼)があり、後者には目前の仕事をきちんと完了すれば報酬が支払われるということなのではないか。もしそうでなければ、社員も店員もただ資本家の道具になってしまう。家族も同様に、そうとは意識しなくとも、日々、めいめいが家を保持し、家風を形成しているはず。庶民は血統だけですべてが守れるわけではない。

組織が堕落して不祥事が世に知れるまでには、日々、何かしらの兆候があるものです。規定をちょっとずつなし崩しにする動き、自分と自分の取り巻きが居心地のよい方を立て続けに選ぶ動き・・・それらを見抜いて、はやい内に芽を摘んでおかなければなりません。そんなこと気にしなくてもと嗤われても、です。

小さな事のようですが、日常的には案外、芯の疲れることです。正規に雇用されたら、あるいは中間管理職なら、このしんどさのために支払われる対価がある。裏返せば、その対価に応じた緊張感を構成員が持ち続けていなければ、組織も家庭も守れないのです。大学然り、会社然り、そして祖国もまた然り。

秋田明大は70年代学園闘争の希望の星でした。さぞ、あの世で無念なことでしょう。