代替わり

吉右衛門が亡くなったことを知った日は、力を落としました。ほぼ同年代だったせいもありますが、好きな役者だったんだな、と今さらのように思いました。キレのいい台詞、スマートな身体、古典の基礎がしっかりある中にどこかモダンさがある。優しそうな顔をしていても、一瞬で威圧感と不可侵性を発揮することができる。

私は特に歌舞伎通というわけではなく、最近は殆ど劇場に足を運ぶこともありませんが、自分と同時代の名優が世を去ると、しみじみ代が替わるという実感があります。映画俳優や舞台俳優では、惜しむ気持ちはあっても代替わりという気にはなりません。襲名という制度の不思議さでしょうか。この上は、玉三郎仁左衛門に長生きして貰いたい。

幸四郎(現・白鴎)、松緑、そして吉右衛門の3人はそれぞれの持ち味が違って、松緑の闊達磊落も好きでしたし、若い頃の吉右衛門俊寛には、どこか賢さが邪魔しているような気もしましたが、江戸前のべらんめえは終生絶品でした。若手女形がラジオ番組で先輩俳優を評して、いつも「おらキッチェモンだあ」という風をしている人、と言ったことがありますが、双肩に担っていたものの重さなのでしょう。若い頃、仏文学に転向したくて養父に相談した時の挿話は有名です。民間人でも、誰もが自分で勝手な道を選べるわけではない。自らこれを選んだ、と覚悟が据わった時、私たちは大人になる。

歌右衛門が亡くなった日(2001/03/31)には、花吹雪と遅い春の雪とが入り乱れて空を舞いました。天がその一生をねぎらう人もあるんだなあ、と思いました。

吉右衛門の訃報と共に「鬼平犯科帳」エンディングテーマのギタートレモロを、幻聴で聞いたような気がしました。もはや同じ世界に彼はいないんだなあ、と思います。義経の後を追って花道を退いていく飛び六方を、もう一度、見たかったよ。