間に合ううちに

遅すぎる。このところ、あらゆるニュースを見る度にそう思いました。老人特有の焦燥感ではないと思います。アフガニスタンへの邦人救出機の出発は、空港近辺に人が集まり、見るからにテロが起こりそうになってからで、他の国々の手配より1週間以上遅れていました。若い世代の感染が増えているのに、ワクチン接種の手配は進まず、始まっても実施人数を、予想される希望者の1割しか見込まなかった。

デルタ株は若年層への感染数と重症化の速度が飛び抜けているのが特徴なのに、自宅療養(自宅放置と言う方が正しい、との指摘もある)中心になっています。五輪後の感染爆発の予測を超えて、五輪直前から感染爆発が起きているのにパラ五輪完遂まで猛進し、一方で緊急事態宣言解除の基準作りを指示。裏目裏目の政策としか思えません。

辛うじて間に合ったのが、ボロ負け必至の選挙の前に引退を決断した、ということでしょうか。少なくとも党は救われた、と安堵した人もいたはずです。マスコミは、説明不足の政治だったと批判しています。しかし私は、説明しないのではない、そもそも説明できないのだと思っています。動機が不純、手順が正しくない、成果は必ずしも万人の為にならない、そういう事がこの国の政界では続々行われてきました、いつからか。

説明できるやり方で、堂々と述べられる目的のある計画を実施する―公と名のつく仕事ならそれが必須です。また自分の思い通りにならない原因を転嫁し続けていては、事態の改善は見込めません。健康危機管理庁を作るとかコロナ対策の法改正を、と一番に言い出す発想は、つまり国民が言うこと聞かないからうまく行かないのだと言っているのに等しい。虚心坦懐に現場の声を聞き、何がいま必要か、近未来まで役に立つ解決方法は何かを考え出せる人、そのための人脈を持っている人が、早急に求められています。