五輪変容

五輪前半が終わって、ようやく「日常」が戻ってきました。ほっとした、というのが大方の感想ではないでしょうか。「やってよかった56%」というアンケート結果は、無理矢理でも実施してよかったという意味ではなく、ともかく無事に済んでよかった、という気持ちが濃いのでは。IOC会長が、東京都が実施出来なくても我々には保険金が入るから損害はないと述べたという報道には、唖然としました。莫大な賠償金を要求される、と尤もらしく繰り返し流された情報は、何だったのでしょうか。してみると、賠償金を要求するのは電通だったのか。

自信がついたと称する政治家を見ていると、こうすればどんな方向へでも、国民が気づかぬままに引きずり込んで行けるという、危険なルートを敷設したことになりはしないか、と恐怖を覚えます。どうか20年後、あああの時が岐路だった、と後悔しませんように。

これを機会に、五輪のあり方を根本的に見直してはどうでしょう。国家別に勝負を争うのは、平和や国際協調の理念に沿わないと思います。大きな世界選手権大会がある種目、プロ興行が成り立っている種目は外し、それ以外は一定の水準を設けて個人参加登録のみを受け付け、IOCが世話をし、会場は希臘に固定する。そもそも希臘は、欧米にとっては文化発祥の地でしょうが、他の地域にとっては必ずしも特別の意味を持っていません。わざわざ松明に点火して運んできて、国中をデモする必然性はない。現在の希臘は羊とオリーブと観光産業で成り立っているのだそうで、ならば4年に1度の経済効果は絶大でしょう。五輪を純粋に、限界に挑む人間の努力を楽しみ、讃える行事に作り替えたい。

勘弁して欲しいのは2週間後、やたら美談が振り撒かれることです。障害者が特別な美談の持ち主でなくとも、スポーツを楽しむことができる、それを応援したいと思います。