日記の生命力

松薗斉さんの「日記の生命力ーなぜ千年前の日記が今に伝わっているのか」(『REKIHAKU』特集「日記がひらく歴史のトビラ」文学通信 2021/6)を読みました。平安時代の男性貴族の漢文日記は、彼らが社会生活をしていく上での必須の知識とその実例のDBの役割を果たし、それゆえ転写され、また項目別に抜き書きされて(部類記という)伝わってきました。近代になって断片を復元する試みもなされ、史料として使いやすくなったが、伝来の間また復元作業の中で、しばしば本文の混入や配列の変化が起こり、注意が必要であることを、『台記』『小右記』を例に挙げて指摘しています。

本誌には近世の遊女が書き付けた日記のことや(横山百合子「「日記」を書く遊女たち」)、「朝鮮時代の日記資料と研究動向」(金貞雲)、また近代日本の個人の日記の蒐集、研究、DB化について(田中祐介「近代日本の「日本文化」を探求する」、島利栄子「個人の日記を社会の遺産に」)など、日記が史料として重視されるようになってきた近年の動向を知ることができます。オーラル・ヒストリーという分野は知っていましたが、エゴ・ドキュメントへの注目という動きは初めて知りました。

映画監督大川史織さんと上代文学専門の三上喜孝さんの対談「日記に寄り添うということーマーシャル諸島と戦争の記憶」は、ずしっと心に応える内容です。さきの大戦で、南方のマーシャル諸島で餓死した父親の日記を、何とか解読しようとした息子の意思が次第に人を引き寄せ、「タリナイ」というドキュメンタリー映画に結実する。この島はその後米国の水爆実験場になり、島民にとっては戦後は未だ来ていない、という。口承で歴史を伝えてきた島民からすれば、時間は細切れではないのだそうです。大川さんは、彼らが今後、新しいメディアによってどう変化していくのか、見届けたいと話しています。