国語教材としての雲雀

今井正之助さんの「小・中学校国語科教科書ひばり教材考ー1950年度以降の採録状況の概観を中心に-」(「愛知教育大学大学院国語研究」28 2020/3)と同誌29「坂本遼「春」小考ー雲雀のためにー」を読みました。戦後の小中学校国語教科書から雲雀を扱った教材を抽出し、坂本遼の詩「春」の解釈の一部に誤読があると指摘しています。読み始めた時は、退職後も国語教育に関わっていく誠実さ(今井さんは太平記が専門)、次いで前者のDBの精密さに、いかにも彼らしいなあと微笑ましい気持ちだったのですが、後者(分かりにくい。最初に結論を示すべきだった)を読むうちに立ち止まりました。

私は教材研究史も知らず、坂本遼の語感覚についても何も知らないので、間違っているかもしれません。しかし今井さんが、雲雀が身近でなくなり、教材からも姿を消したために、坂本遼「春」の「大きな空に/小ちゃいからだを/ぴょっくり浮かして」が、「おかん」(作者の母)の姿と誤解されてきたが、停空飛翔する雲雀を描いたものだと主張しているのには、俄に賛同しがたい気がします。今井さんは坂本の詩「日の出」や、庄野潤三の「小さい羽を動かして、まるでやっとこさ空に引っかかっている」という説明を傍証に使っていますが、私はまず「ぴょっくり」という擬態語に違和感を覚えます。

私の育った湘南地方の春、雲雀は見慣れ、聞き慣れた小鳥でした。雀や烏よりも身近だったかもしれません。麦畑や松苗が植林されたばかりの砂浜は、最適な環境だったのでしょう。雲雀が囀る時は、地上からは点にしか見えない(時には全く見えない)ほどの上空で、「ぴょっくり」という語にはどうもはまらない。大きな時間と空間の中に置かれた、老いてゆく母の姿は、主人公の脳裏に浮かんだものです。空を背景に、曲がった腰のままじっと雲雀や牛の声を聴く母の立ち姿ー現実に、あの「おかんを みたい」のです。