女三の宮

原田敦史さんの論文「女三の宮の和歌」(「共立女子大学文芸学部紀要」67集)を読みました。「慰む」という語の解釈をめぐって、『源氏物語』の読みについて述べています。光源氏の晩年、若い正妻女三の宮と青年柏木との密通・妊娠事件は、まさしく若き日の自らの過ち(藤壺との密通・冷泉帝の誕生)が、ブーメランのように我が身に戻ってくるという、この物語を貫く構想に関わる挿話です。

柏木が寝所から慌ただしく出ようとする際に、「出でなむとするにすこし慰めたまひて」、宮は「あけぐれの空にうき身は消えななむ夢なりけりと見てもやむべく」と、「はかなげに」返歌します。この「慰め」を従来の注釈の多くは、やっと男が出て行くので宮がほっとしたと解釈し、中には宮が柏木に対して徐々に和んできたのだと説く説もあるが、宮は決して柏木が望む回答を与えたりはしていない、というのが論旨です。

「慰む」には4段活用の自動詞と下2段活用の他動詞があり、本例は後者、語意は「気を静める、和らげる」であるのに、多くの注釈書は自動詞か受け身のように訳していて、それでは宮の拒絶と抗議の意思が伝わらない、と述べます。そのような「慰む」の用例を『源氏物語』から26例拾っていますが、注釈書への反論でなく、中古の「慰む」そのものの語意をまず論じた方が(目的語は不要なのか等も)説得的だったと思います。

「決して望む言葉などは与えない、無礼な脅しに屈する所存はないとだけは伝えなければならない」と、女は震えながらも必死だった、男は、初めて肉声で自らの歌と共有する語のある返歌を得た喜びに、与えた傷の深さを全く解っていない、という原田さんの読みは、貴重なものです。その後の宮の心理も含めて、『源氏物語』の人間観が論じられるべきでしょう。幕切れの、浮舟を理解しない薫の諦めが思い合わされます。