検証『信長公記』

砂川博さんから久しぶりに手紙が届き、論文「荒木村重尼崎城「移」動ー検証『信長公記』「荒木村重書状」『立入左京亮入道隆佐記』ー」(尼崎市立歴史博物館紀要「地域史研究」20 2021/3)が同封されていました。

砂川さんは故金井清光さんのお弟子さんです。鳥取大学教育学部(社会科教育専攻)卒業後、『平家物語』や時衆の研究を続け、國學院大學で博士号を取得、2017年に相愛大学を定年退職して以降、学会のつきあいも賀状のやりとりもやめてしまわれたので、私とは音信不通だったのですが、2011年以来、市民講座で『信長公記』を読み続けてきたとか。最近は戦国軍記、殊に関西から中国地方にかけての戦国時代の人物を調べている、とのことでした。

戦国軍記は文学側からの研究が遅れている、否、皆無に近いと言ってもいいでしょう。歴史学、特に郷土史の方面からは研究が続々出ており、愛好家も多いので、史料紹介やその吟味の報告は大量に発表され、京都の国際日本文化研究センターや東大史料編纂所では毎年、共同研究が行われているようですが、さて文学史と関わるような視角が確保されているかというと、その段階は未だずっと遠いようです。それゆえ、軍記物語講座(花鳥社 2019~20)も、室町軍記までで留めました。

砂川さんは手堅く史料を調べ、世の流行を追わず、信じるところを述べる学風です。本論文は、『信長公記』冒頭、天正7年(1579)9月2日、荒木村重が5,6人の供を連れて有岡城を脱出、尼崎城へ移ったという記事の真偽について検証しています。村重は、実は数百の勢を率いて有岡城包囲網を突破し、尼崎城で戦線を立て直そうとしたのだとする天野忠幸さんの説に反論したもの。関心のある人は多いでしょう。