開日

知人の高月亨さんからメールが来ました。高月さんは理系の出身ですが、法学部を出て弁理士になり、目下、和暦に関心があって、調べているのだそうです。

【岩波の新日本古典文学大系43『保元物語 平治物語 承久記』331頁の慈光寺本承久記の一節「去トモ義時、日取セン。五月廿一日〈甲辰〉開日ゾ、猶々急玉ヘ」(〈〉内は2行割書)の「開日」について、注五二は「開く日(〈にち〉)。吉日。」と説明しています。私はこの「開日」とは、暦注の十二直(十二客とも)の「開」の日のことであると考えます。和こよみのサイト等で見ると、承久3年5月21日は、十二直で開です。 

東大史料編纂所の古記録フルテキストデータベースで検索した「開日」の用例2件がやはり「開」の日の記述であることから、「開日」とは日柄が「開」の日を指す語だと考えました。検索した用例は下記の通りです。①寛元元年1月23日の『御産部類記』「(仁治四年)正月廿三日、庚子、開日也、予(丹波経長)相具仙沼子、午時参内」(仁治4年(寛元元年,1243)1月23日庚子は十二直で開です。この記事は群書類従527の『后宮御着帯部類記』で確認)。②寛治6年 4月3日の『後二条師通記』「群忌隆集曰、開日治室高遷」(これは散逸した漢籍「群忌隆集」の引用のようです。この日に行なった工事に関する記事で、その日の十二直はやはり開です)。その他陰陽道書『陰陽吉凶抄』に用例があります(詫間直樹 高田義人編著『陰陽道関係史料』2011 汲古書院)。】

新大系の該当ページを見ると、脚注欄が詰まっており、「日」を「にち」と訓ませているところから、原稿には十二直の説明があったのに、編集上、スペースに合わせて削った結果、意味不明になってしまったのかもしれません。武士社会では吉凶と暦の関係をどう考えていたのか、彼らの行動にどんな影響があったのか、蒙を啓かれました。