歌誌『玉ゆら』70号を頂きました。めくりながら、少しずつコロナ下の生活詠が増えているのに気がつきました。紺野裕子さんの「コロナ禍の中で詠う」というアンソロジーも掲載されています。
医療なく村閉ざさるるペスト禍の死はつね在りてつね近きもの(笠原千紗子)
三密を避けて気付けり世の中の成り立ちこそがまさに三密(水越響)
炎天をうつむくマスクの人が行く辺りを圧してみんみんの声(小山加悦子)
花開き実となり赤く桃太るコロナ自粛の百日の間に(松沢陽子)
令和の世いざ出でたまへ源三位鵺ならぬコロナを退治すべく(菅野節子)
とほき死が世にみちて風光る朝さへづり清く街をわたれる(里匂博子)
口きかず離れてゐるがマスクする エビデンスより恐きひとの眼(伊東民子)
これよりはわが身は一つ発光体ピアノの前にマスクを外す(青木道枝)
夫の住むホームの窓をノックして身振り手ぶりの会話に汗かく(松原淑子)
庭に出て雑草抜けば時速しコロナ蟄居の憂さを忘るる(岡村紀世)
時事詠は難しい。まして今回のような、日常を侵すものの正体、私たちの「ふつう」の在り方をぐらつかせるものの正体が簡単に掴めないまま時間だけが過ぎてゆく場合には。でも、我慢しよう、堪える日常を励ましてくれるものもある、と歌う詠歌群を貫通して何か必要なもの、そこにあるべきものが、おぼろげに感じられるような気がしました。未だうっすらとしていて、論じるほどの輪郭がありませんが、歴史文学を読み慣れてきた私としては、短歌という器にも、永い時間・大きな世界は盛り込めるはず、その鍵は何なのか、自分でも考えてみたい、それは今だと思ったのです。