「自粛要請」

日本政府のコロナ対応と社会の反応に、何か違和感ーひと口で言えないずれ、噛み合わないことの「きもちわるさ」を、ずっと感じてきました。何だろう?言葉や概念規定に関係がある、と思っていたのですが、昨日の朝刊に3人の専門家(応用経済学、現代政治理論、国語辞典編集)のコメントが載っているのを読んで、ああこれだ、と思い当たりました。端的に言うと、誰もが他人持ちでこの事態を切り抜けようとし、うまくいかないのでますますこじれている、その原因は使う言葉が適切でないからでは、ということです。

新しいウィルスが流行し始めたこと、そのこと自体はいわば天災も同様で、誰かが今すぐ解決できることではありません。しかし初期対応がまずくて好ましくない事態が拡大してしまった(しつつある)こと、それは人災です。このウィルスを押さえ込む決定的な方法は、未だ誰にも分かっていません。だから仮説を立て、いま取りあえず出来る方法、もしくはやってはいけないであろう方法を広く告知する、そこまでは正しい。ただその方法が最上で万全であるかどうかは、100%保証されているわけではなく、ともかくやってみる、というのが現状でしょう。

なら政府はそう言うべきです。我慢とか耐え忍ぶとかを言い渡され続ける状態では、いつまでなのか、それによって喪うものはどうなるのか、と聞き返したくなります。自粛は強制ではなく要請だというが、自粛の有効性とそのダメージとの釣り合いは、誰が決めたのか、と。恐らく政府も対策チームの専門家も、言葉がそれぞれの立場や責任のあり方に見合っていないことを、自覚していないのではないか。根本的にダメージは相手負担で「要請」していること、自分たちの立ち位置はそれでいいのか、気づいていますか。私たちが、自分たちの選択によってその結果のダメージも併せて切り抜けよう、支援はあるから、と思えるようにならなければ、対策は有効にならないでしょう。