「剣巻」の密教的転換

高尾祐太さんの「『平家物語』「剣巻」の密教的転換―風水龍王をめぐって―」(「国語と国文学」 2020/1)を読みました。「剣巻」とは、壇浦合戦で三種神器の宝剣が喪われた記事に関連して『平家物語』中の1章段として語られ、それに源家に伝わる宝剣の話などを盛り込んだ「剣巻」という作品としても存在し、また屋代本『平家物語』や『太平記』の付録にもなっている作品です。

高尾さんは「剣巻」諸本が安徳天皇の正体を「風水龍王」とすることに注目し、風水竜王について記す『釈摩訶衍論』(真言宗根幹の書で、日本では密教の書として読まれたそう)に拠って、八岐大蛇の尾から宝剣が取り出されるのは、無明に蔽われた衆生心から智を得ることの比喩であり、中世人には理解できたはずとしています。また海は覚りの境地を表し、風水竜王が宝剣を携えて海へ沈むのは、無明に蔽われた衆生の一心が覚りの世界へ至る過程を表すものと説きます。そして密教においては盛者必衰・諸行無常は有縁のことであって、宝剣水没記事は、その背後にある真理を透視するものだとも言うのです。

屋代本『平家物語』は密教的な場と関係があり、百二十句本と同様、灌頂巻を持たない代わりに「剣巻」が真の救済を示しているのだというのが、高尾さんの提案です。密教のテクストには深浅の意義が重層的に存在しており、解釈は享受者に委ねられている、「風水竜王」はその鍵であると結びます。

密教テキスト読解の正誤は、私には判断できません。また『平家物語』の享受者層をどう想定するのかも、議論の余地があるでしょう。しかし屋代本になぜ「剣巻」が付いているのかに注目したことは、賛成です。私としては、「舟のゐとく」や「秤の本地」など、物に寄せて歴史を叙述する系譜の指向にも注目して欲しいと思います。