日光線

仕事上のことで落胆、困惑、模索が続いて鬱屈しているところへ、あちこちの知人から届くメールの、書き添えられた言葉に励まされます。平勢隆郎さんからは、年金問題でストの続く巴里から帰ってきた、と巴里便りの続編が来ました。忙しく活躍している後輩からは、いま京都に出張中です、と。そして多ヶ谷有子さんからは、少女時代の思い出が綴られたメールが来ました。以下に引用します。

[中高時代、通った学校は、日光線で宇都宮の一つ手前の鶴田駅から、歩いて20分でした。駅からほどなく宇都宮高校があり、それを迂回するように畑の畦道を越えると、私の学校です。宇高の正門から裏門を突っ切ると5分は早いのですが、滅多に通り抜けはしません。ある土曜日の午後に一度、人影がなかったので、はらはらしながら上級生と一緒に突っ切りました。私たちは無事でしたが、別の生徒が校庭に落ちていた通知表を見つけ、拾って届けたものですから、私たちの悪事も見つかり、朝礼のときに校長先生から、ご注意を受けました。

秋から冬にかけての下校時間は、晴れていれば夕焼けがきれいでした。校門を出て畦道に入ると、道の両側がうっすらと夕闇色に染まり、宇高の杉の森が黒々と聳え、頭の上はまだ青い空ですが、遠くを見ると真っ赤な夕焼けを背景に男体山を真ん中に日光連山が雄大な姿を見せています。まだ秋なのに、なんとなく「冬の旅」のような気分で歩いて駅までたどり着いたものでした。

当時はまだ国鉄で、駅員さんは親切でした。定期券を忘れても(今市駅でも鶴田駅でも)、通してくれました(宇都宮駅では駄目)。1時間か2時間に1本しかないので、早く登校するときには、30分ほど駅で、明るくなるのを待ちました。すると鶴田駅のおじさんが、暖かい御茶を振る舞ってくださいました。私は忘れ物の名人で、いろいろ電車の中に置き忘れました。通学鞄、油絵の道具、その他諸々、手から離れると忘れました。そのたびに駅のおじさんにお世話をかけました。帰りに寄ると、今日は小山で見つかったよ、今日は大宮だったよ、と笑いながら手渡してくださいました。

何故か、こうしたことは、秋から冬に移るときに思い出します。畑の向こうに点在していた人家の煙突からのぼる薄紫の煙の匂いと色は、いまも鮮やかです。](多ヶ谷有子)